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東京高等裁判所 平成2年(行コ)152号 判決

《目次》

当事者の表示

主文

事実及び理由

第一当事者の求めた裁判

第二原判決の引用

第三当審における控訴人らの主張に対する判断

一ロッキード社からの報酬について

1 外貨建小切手による支払について

(一) 外貨建小切手の授受について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

(二) スイスフラン小切手について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

(三) ドル小切手について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

2 二〇万ドルの支払について

(一) 控訴人らの主張

(二) 被控訴人の反論

(三) 当裁判所の判断

3 ロッキード社から児玉への資金の動きについて

(一) ロッキード社からの資金の支出状況

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

(二) 香港ディーク社を経由したクラッター宛送金の明細について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

(三) クラッターの「摘要」について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

4 児玉が受領した金員の処分先について

(一) 控訴人らの主張

(二) 被控訴人の反論

(三) 当裁判所の判断

5 児玉の自認額を超える金額の支払原因について

(一) 「手数料」の支払原因について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

(二) 手数料の支払に関する契約について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

(三) 修正一号契約書について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

(四) 特別謝礼金について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

6 児玉領収証について

(一) 児玉領収証の異常性

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

(二) 児玉領収証の作成・交付の状況について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

(三) ロッキード社による児玉領収証を利用しての裏資金操作について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

7 福田、コーチャン及びクラッターの各供述の信用性について

(一) 福田の供述について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

(二) コーチャン、クラッターの各証言について

(1) 控訴人らの主張

(2) 被控訴人の反論

(3) 当裁判所の判断

8 コーチャン、クラッター両名の証言調書の証拠能力について

(一) 控訴人らの主張

(二) 被控訴人の反論

(三) 当裁判所の判断

二北星海運株式の譲渡について

1 控訴人らの主張

(一) 山崎証言について

(二) 萩原の供述について

(三) 菊池の供述及び坂巻の申述について

(四) 吉水及び佐々木の各供述について

(五) その他

2 被控訴人の反論

(一)山崎証言について

(二) 萩原の供述について

(三) 菊池の供述及び坂巻の申述について

(四) 吉水及び佐々木の各供述について

3 当裁判所の判断

(一) 山崎証言について

(二) 萩原の供述について

(三) 菊池の供述及び坂巻の申述について

(四) 吉水及び佐々木の各供述について

(五) その他

三ジャパンラインからの収入金額に係る必要経費について

1 控訴人らの主張

2 被控訴人の反論

3 当裁判所の判断

四熱海観光株式の譲渡について

1 控訴人らの主張

2 被控訴人の反論

3 当裁判所の判断

第四結論

別表

控訴人

児玉睿子

児玉博隆

児玉守弘

児玉雅世

児玉弘美

野中由美子

児玉義昭

右控訴人ら訴訟代理人弁護士

横井治夫

被控訴人

玉川税務署長遊佐清德

右指定代理人

寳金敏明

外七名

主文

一  原判決中控訴人らの昭和四八年分所得税に関する請求を棄却した部分を、次のとおり変更する。

1  被控訴人が、児玉譽士夫の昭和四八年分所得税について昭和五二年五月一七日にした更正のうち、総所得金額三億三九八六万〇二一九円を超える部分及び納付すべき税額のうち右総所得金額に対応する金額を超える部分並びに昭和五一年九月三〇日にした重加算税賦課決定(昭和五二年一月二一日変更決定)及び昭和五二年五月一七日にした重加算税賦課決定のうち、重加算税の計算の基礎となる税額に係る所得金額二億九〇八二万三一六〇円に対応する金額を超える部分を、いずれも取り消す。

2  控訴人らの昭和四八年分所得税に関するその余の請求を棄却する。

二  控訴人らのその余の各年分所得税に関する控訴をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、第一、二審を通じてその全部を二〇分し、その一を被控訴人の負担とし、その余を控訴人らの負担とする。

事実及び理由

第一当事者の求めた裁判

一控訴の趣旨

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人が児玉譽士夫(以下「児玉」という。)の昭和四六年分所得税について昭和五二年一月二一日付けでした更正のうち総所得金額一億一八八八万七五二八円、納付すべき税額六一一〇万八八〇〇円を超える部分並びに昭和五一年三月一三日付け及び昭和五二年一月二一日付けでした各重加算税賦課決定を取り消す。

3  被控訴人が児玉の昭和四七年分所得税について昭和五二年五月一七日付けでした更正のうち総所得金額二億七五八七万〇〇〇九円、納付すべき税額一億八〇三二万九三〇〇円を超える部分並びに同日付けでした昭和五一年三月三一日付け重加算税賦課決定の増額変更決定及び重加算税賦課決定を取り消す。

4  被控訴人が児玉の昭和四八年分所得税について昭和五二年五月一七日付けでした更正のうち総所得金額二億〇一八六万〇二一九円、納付すべき税額一億二六二六万四一〇〇円を超える部分並びに昭和五一年九月三〇日付けでした重加算税賦課決定(ただし、その後昭和五二年一月二一日付けで変更済み)及び昭和五二年五月一七日付けでした重加算税賦課決定を取り消す。

5  被控訴人が児玉の昭和四九年分所得税について昭和五二年五月一七日付けでした更正のうち総所得金額一億四三七一万〇六一六円、納付すべき税額八〇一三万七四〇〇円を超える部分並びに昭和五一年九月三〇日付けでした重加算税賦課決定(ただし、その後昭和五二年一月二一日付けで変更済み)及び昭和五二年五月一七日付けでした重加算税賦課決定を取り消す。

6  被控訴人が児玉の昭和五〇年分所得税について昭和五二年一月二一日付けでした更正のうち総所得金額一億九〇三四万七八八五円、納付すべき税額一億二〇〇〇万四六〇〇円を超える部分及び同日付けでした重加算税賦課決定を取り消す。

7  訴訟費用は、第一、二審とも、被控訴人の負担とする。

二控訴の趣旨に対する答弁

控訴棄却

第二原判決の引用

当事者の主張及び当裁判所の判断は、第三において当審における控訴人らの主張に対する判断を示し、次のとおり付加、訂正するほかは、原判決の事実摘示及び理由説示のとおりであるから、これを引用する。ただし、原判決八二枚目表七行目から同八四枚目裏四行目までを除く(この部分は、本判決の第三、三、3(六八九頁から六九八頁まで)をもって代える。)。なお、証拠の関係〈省略〉

第三当審における控訴人らの主張に対する判断

一ロッキード社からの報酬について

1  外貨建小切手による支払について

(一) 外貨建小切手の授受について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

〈書証番号略〉によれば、ロッキード社取締役会特別調査委員会報告書(ニューマン報告書)の付属提出書類の中に「当委員会の調査は、不適当な証拠文書を用いた取引において、ロッキード社の資金で買い入れた持参人払小切手がかなり使われていることを明らかにしたが、これは、小切手を購入する最初の取引及びその後の小切手に表示されている金額の支払の両方をロッキード社の常例の財務管理から免れさせるためであった。」、「ロッキード社は、多くの場合、外国販売子会社を通じて外国販売代理人及びマーケッティング・コンサルタントに支払を行い、その子会社がそれぞれの場合に応じて事業部又は営業子会社にその費用の勘定書を送っていた。これらの支払の大部分はスイスに置かれ又は設立されたロッキード社の子会社によってなされたが、それはスイスの企業秘密遵守法の保護を受けられるからであった。」との指摘があることが認められる。

しかし、これらのわずかな、趣旨も必ずしも明確ではなく、かつ、断片的な記載から、直ちに控訴人らの主張するような推認をするのは困難である。また、控訴人らが主張するような児玉への支払を仮装した裏資金の捻出が行われたとすれば、ロッキード社として看過できない事態であるから、右のような断片的な記述にとどまらず、前記調査委員会が徹底的な調査をし、端的にその旨の指摘をするはずであるが、調査報告書あるいはその付属提出書類にそのような記述があることについては何ら主張・立証がない。むしろ、ニューマン報告書(〈書証番号略〉)は、「緒言」において「一九七六年四月一三日、証券取引委員会はロッキード社及び一九六七年から一九七六年までロッキードの筆頭取締役であったホートン及びコーチャンの二名を相手どって訴訟を提起した。この訴訟の主たる訴点は、ロッキード社が(1)外国政府の高官に対して金銭を支払い、(2)そのために秘密資金を使用し、(3)同社の財務記録及び報告書に虚偽の記載を行ってその行為を隠蔽したことを発表せず、それによって証券取引法(一九三四年公布)に違反した、とするものであった。」と述べており、その付属提出書類(〈書証番号略〉)にも、「すべての領収証の信憑性が疑わしく、当委員会はクラッター及びエリオットに供給された通貨が陳述されたように支出されたことを確認することが出来なかった。」との記述はあるものの、「当委員会はロッキード社が日本における販売促進活動に関連して、すでに一九五八年六月に日本国内の第三者に対して金銭の支払いを開始していることを確認した。すべての支払いは円貨で行われたが、これはこの支払いの受取人の強い主張により円貨で行われたのである。」、「一九六九年の間、ロッキード社はL―一〇一一航空機を日本の航空会社へ販売する活動を開始した。この活動計画に関連して、日本の第三者に対しての通貨の支払い回数及び支払い金額が増大していった。必要額の円貨を一度に入手することが必ずしも可能ではなかったので、ロッキード・アジア社長J・W・クラッターの東京事務所に円貨を『ためる』作業が行われるようになった。」、「日本においては円貨はエリオット又はクラッターに渡されたものと思われる。……日本の航空会社の役員に対してエリオットみずから金を渡した二度の場合を除いてエリオットはその円貨をクラッターに渡しクラッターはロッキード社の東京事務所の鍵をかけた書類キャビネットの中へそれを収納した。クラッターはしたがってクラッターの東京事務所内に保管された『在庫金』からの円貨の支出はかれの所管事項であった。クラッターは訪米中に円貨の支出を裏づける受領証を提出した。」等の記述があり、ロッキード社が外国政府の高官や日本の第三者に対する支払をした旨の記載はあるが、右支払の事実がなく、仮装された旨の記載はない。

次に、自己宛小切手による支払がされた理由については、コーチャンは、〈書証番号略〉において、「児玉に対する支払は、一九七二年(昭和四七年)後半まで、大半の場合、円札であった。正確には覚えていないが、その頃、児玉は若干の金をスイスフランか他の通貨で要求した。これは、ドルであったかもしれないし、他の物であったかもしれない。その頃、私はクラッターに、現金で支払をするのは実際的でない旨児玉に言うようにと言った。私は、児玉が持参人払小切手で金を受け取ることを考えるよう望んだ。児玉はこれに抵抗し、私はそれについて児玉に圧力をかけ、ついに児玉は持参人払小切手で金を受け取り始めるのに同意した。」旨証言している。〈書証番号略〉においては、「私は、児玉がスイスフランで支払を要求したのでほっとした。というのは、私は、円紙幣は我々にとって本当に問題であること、そしてもし児玉が円の持参人払小切手を取ってくれるのならば助けになると児玉を納得させようとしていたからである。それから児玉は、若干円の小切手、そして私の記憶ではスイスフランとドルを取ろうと言った。そのため私はほっとした。それらの方がずっと扱うのがやさしいからである。」と証言している。また、クラッターは、〈書証番号略〉において、「私の記憶では、会社は、一九七二年(昭和四七年)一一月初めの児玉への二回の交付分の多額の円を購入するのが難しかった。それで、私は児玉にその問題を述べて、自己宛小切手で渡すと言うと、児玉は同意した。そして、スイスフランとドルとに分けてくれと要求した。それぞれの通貨分の額も児玉が指定した。」旨証言している。これらの証言によれば、小切手による支払を希望したのはロッキード社であるが、小切手による支払をする場合に、スイスフランとドルによる小切手を要求し、それぞれの金額の配分を指定したのは児玉であったものと認められる。〈書証番号略〉(児玉の陳述書)には、児玉はスイスフランという通貨のあることも知らず、換算率なども分からなかったとの記載があるが、採用することができない。また、なぜスイスの銀行振出の自己宛小切手が利用されたのか、なぜスイスフランで一億円、ドルで五億円と分けられたのかという点が明らかにされていないからといって、前記コーチャン及びクラッターの各証言が信用できないということにはならない。

〈書証番号略〉によれば、香港ディーク社のために現金等を運んでいた保世新宮は、検察官に対して、昭和四八年二月二日頃から昭和四九年一〇月八日頃までの間に四一回にわたって合計一五億九六二七万円余りの預手を香港ディーク社から受け取ったと供述していることが認められる。しかし、この時期は右のとおり昭和四八年以降であり、児玉に対する自己宛小切手の交付は昭和四七年一一月であるから、直ちに昭和四七年当時も円貨による支払が可能であったとはいえない。また、コーチャンは、「それだけの量の現金を扱うのは難しいことです。」「それをかき集め、保管し、それを蓄めておき、それを引き渡し、それを扱うことに問題がありました。全てのつながりがとても難しい仕事でした。」と証言しており(〈書証番号略〉)、小切手による支払を希望したのは、単に円貨の調達が困難であったという理由だけではなかったことが窺われる。

(二) スイスフラン小切手について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

① 銀行が自己宛小切手の取組依頼人に対し、その決済に関する資料を積極的に交付することを認めるに足りる証拠はない。控訴人らは、このことは条理上当然であると主張するが、肯認することはできない。〈書証番号略〉によれば、スイス・クレジット銀行はロッキード・エアクラフト・インターナショナルAGに対し、本件スイスフラン小切手及びドル小切手を振り出した旨を通知していることが認められるが、この事実から直ちに支払に関する事実も通知するものであると推認することはできない。

また、〈書証番号略〉によれば、ロッキード社のスイス・クレジット銀行に対する照会について被控訴人主張のような事実、すなわち「スイス・クレジット銀行は、スイス刑事法の定める種々の規定により、スイスフラン持参人払小切手が現金化されたと仮定した場合のその裏書人の名前はおろか、小切手が現金化されたか否かについてすら回答を拒否した」ことが認められる。控訴人らは、このようなことは常識に反すると主張するが、〈書証番号略〉は、ロッキード社の首席法律顧問ジョン・H・マーチンのLAAL(ロッキード・エアクラフト(アジア)リミテッド)日本事務所ジャック・デヴィッドソン宛の書簡であって、その記載が事実ではないと疑うべき根拠は全くない。

② 〈書証番号略〉によれば、大刀川の供述について被控訴人主張のような事実が認められ、右供述自体あいまいなものであるといわざるをえない。

また、右供述は、取調担当検事から、スイスフラン小切手を福田が換金して、そのうち一五万ドルは福田が受け取り、残りは児玉の所へ届けたはずであるが、君は受け取っていないかという質問を受けたという内容であって、福田が一五万ドルを受け取ったというのは、客観的事実ではなく、検事が抱いた疑問にすぎなかったものとも解される。したがって、この供述を前提に推論を重ねるのは失当である。

控訴人らの指摘するコーチャンの証言は、「修正一号契約書の調印の際に、児玉は福田も報酬を受けるべきであると依頼し、私はクラッターと話をし、我々は福田のこの件についての働きに対する報酬として一〇万を児玉に渡すべきであるという意見に一致したが、児玉はこれに反対し、結局我々は一五万の数字で決めた。したがって、これらの数字が児玉に対する報酬の支払に含まれている。」というものであって(〈書証番号略〉)、この一五万ドルと本件スイスフラン小切手とが関連するものであるとは証言していない。したがって、この証言と本件スイスフラン小切手とを結びつけるのは根拠のないことであるといわざるをえない。

③ 〈書証番号略〉によれば、スイスフラン小切手及びドル小切手の領収証の交付に関して被控訴人主張のとおりの事実を認めることができる。

また、仮に児玉がフランス語を解さず、スイスフランと円との換算率も知らなかったものであり、かつ、スイスフラン小切手に見合う領収証が二通になっている理由が明らかではないからといって、この領収証をロッキード社側が偽造したものであるとの結論が直ちに導かれるものではない。

(三) ドル小切手について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

① 小切手の受領者がこれを直ちに支払呈示するかどうかは、当該受領者の右小切手金を必要とする緊急性の程度によるのであって、自己宛小切手は、支払呈示期間を経過しても銀行がその支払に応じないということはないのであるから、小切手を受領後二か月間保管していたからといって、そのような事態は条理上ありえないとはいえない。

スイスフラン小切手と異なり、ドル小切手だけが直ちに支払呈示されなかったとしても何ら不自然ではない。

また、〈書証番号略〉によれば、児玉は、昭和四七年一二月中旬頃福田が児玉方を訪れ、「ヨーロッパ方面の旅行に出かけるが、クラッターから預かった大事な書類があるので、来年お訪ねするまで預かって下さい。」と言って一通の封書を出したので、これを預かったが、福田から物を預かったのはこの時が初めてであり、自分に封書を預ける理由などは何も尋ねなかったと陳述している。しかし、福田としては書類を安全に保管する方法は他にいくらでもあると思われるのに、これを殊更児玉に預ける理由は不可解であり、それまで児玉に物を預けたことのない福田がこの時に限って預け、しかも児玉がその理由を何も聞かなかったというのも首肯し難いことである。児玉の陳述はそれ自体にわかに信用し難いものである。

そして、〈書証番号略〉によれば、福田は検察官に対して、昭和四七年一一月上旬、クラッターが福田とともに児玉宅に赴き、スイス銀行振出の合計六億円相当の持参人払小切手(五億円のドル小切手及び一億円のスイスフラン小切手)を児玉に渡した、福田は年末から翌年初めにかけての予定でヨーロッパ等への旅行に出かけていたところ、一月初め、ニューヨーク滞在中に、クラッターから「児玉が小切手を盗まれたと言っている」として早急に帰国するようにとの電話を受けたので帰国した、帰国した当日か翌日クラッターとともに児玉宅を訪れたところ、児玉は、ドル小切手などの入ったアタッシェケースを泥棒に持っていかれた、警察に出した盗難届けにはドル小切手を盗まれたとは書かず、福田から預かっていた小切手帳も盗まれたと書いた、と言った、そこで福田は児玉に、それは事実に反するので訂正して下さいと頼んだところ、児玉は訂正する旨述べていた、後日児玉より、福田から預かった小切手帳は見つかったので訂正の届け出をしたと聞いた、と供述していることが認められる。この供述は児玉の前記陳述とは相反するものであって、福田の供述と対比しても、児玉の陳述は信用することができない。

ドル小切手の領収証が六通に分かれ、日付も四種類になっており、その理由が不明であるからといって、不自然ではなく、このような事実からこの領収証はロッキード社が偽造したものであると断定するのは早計である。

②ア 〈書証番号略〉によれば、児玉名義の昭和四八年一月三日付け被害届及び一月九日付けの被害追加届けには被害金品として小切手という記載はなく、書類入封筒三通、封書八通位等の記載があるだけであること、一月三日付けの玉川警察署刑事課捜査係作成の臨場実施簿には、被害金品の一つとして「封筒 小切手帳らしい調査中 1(数量)」との記載があり、この記載が横線で抹消され、「被害にあらず」と記載されていることが認められる。

そして、〈書証番号略〉によれば、昭和四八年一月当時玉川警察署に勤務しており、児玉宅の盗難事件の捜査を担当した古賀英人巡査は、昭和五一年四月一五日、検察官に対して、一月三日、児玉は、盗難にあったアタッシェケースの中に小切手が入っていたということは申告しなかったと供述していることが認められる。次に、〈書証番号略〉によれば、古賀巡査は、翌日である四月一六日には、検察官に対して、前記臨場実施簿を見て思い出したとして、児玉は、一月三日に、封筒の中には小切手帳が入っていたと申告した、そこで小切手帳について質問したところ、児玉はあまり答えたくないような態度で「あとで良く調べてから返事をします」と言ってそれ以上内容を明らかにしようとしなかった、そこで臨場実施簿に「封筒 小切手帳らしい 調査中」と記載した、ところが一月四日以降に児玉から小切手帳が入っていた封筒はアタッシェケース内に入っておらず、窃盗の被害にはあっていないとの申告があったので、臨場実施簿の右記載を抹消し、「被害にあらず」と記載した、と供述していることが認められる。また、〈書証番号略〉によれば、同巡査は、昭和五二年九月二二日の証人尋問においては、児玉が、複数の小切手が入っていたと述べたので、それらが一つの綴りになっているものと判断して臨場実施簿に「小切手帳らしい」と記載した、検察官に対しては、検察官から小切手帳ということで質問があったのでそのように答えた、と供述していることが認められる。

「複数の小切手」と「小切手帳」とは異なるものであるから、古賀巡査の供述は変遷しているというべきであるが、右認定の事実によれば児玉の申告内容自体があいまいであったことが窺われ、臨場実施簿の記載も「小切手帳らしい」というのであって、小切手帳であると断定しているわけではない。したがって、古賀巡査の供述の変遷が著しく不合理であるとまではいい難い。また、〈書証番号略〉によれば、当時玉川署長であって一月三日に児玉宅に臨場した佐野行雄証人も、はっきりはしないが、児玉から小切手を盗まれたというような話を聞いた記憶もある、昭和五一年四月一七日検察官に対しては、臨場実施簿を見せられて、児玉から、小切手を盗まれた、金はどうでもよいが小切手と書類は重要なものなので他人に渡ると困ると聞いたと供述した、と証言していることが認められ、明確ではないが、古賀巡査の証言の裏付けがないわけではない。したがって、児玉は、古賀巡査に対して、小切手を盗まれたと申告した可能性が大きいものというべきである。

これに対し、〈書証番号略〉によれば、大刀川は、昭和五四年一一月一日の公判において、盗難被害の内容の詳細は知らないが、児玉が福田から預かった文書一通が入った書類を盗まれたと聞いた旨供述していることが認められるが、具体性に欠けるものであって、右認定を覆すに足りるものではない。

イ 次に、右盗難事件発生後のクラッターに対する連絡等については、〈書証番号略〉(昭和五三年五月一八日の公判調書)によれば、福田が代表取締役であったJPR社の常務取締役であった歳谷証人は、昭和四八年一月四日(福田の海外旅行中であった。)に大刀川から電話があり、クラッターから受領したドル小切手が盗難にあったので至急クラッターに連絡してほしいということであった、そこで直ちにクラッターに連絡し、同日クラッターとともに児玉宅を訪問した、児玉はクラッターに対し、ドル小切手が盗まれたので無効にしてもらいたいと述べ、クラッターはこれを了承した、昭和五一年四、五月に検察官の取り調べがあった際には、児玉宅で盗難にあったのは重要書類であると供述したが、これは事実ではなく、当時いわゆるロッキード事件に関する報道がされており、病気であった福田社長をかばうためと、会社の立場からもできるだけ世間の注目の的にならないようにという配慮が働いて、事実に反することを供述したものである、今考えれば検察官に対しては真実を述べてもかまわなかったと思う、と証言していることが認められる。

右歳谷証人が検察官に対して事実に反する供述をした理由として述べていることは、合理性を欠くものであるとはいえない。また、歳谷証人は、一月四日に児玉宅で児玉と話をした部屋は「玄関を上がってすぐの六畳か八畳の和室(左側のような記憶である。)」であったと記憶しており、門にインターホーンがあってそれによって来意を告げたように記憶している、正門の状態、正門から玄関に至るまでの状況、玄関の広さやその状況、前記和室の内部の状況等については記憶がない、と証言しているところ、〈書証番号略〉によれば、当時児玉宅の玄関左脇の部屋は一三畳位の広さの洋間であり、正門にはインターホーンはなく押ベルが設置されていたことが窺われる。しかし、これらの点についての歳谷証人の記憶が正確ではなかったとしても、同証言の信用性に疑問があるということはできない。また、児玉宅の家屋等の状況を記憶していないからといって、直ちにその証言の信用性が左右されるものではない。

また、〈書証番号略〉によれば、クラッターも、日記(〈書証番号略〉)を参照した上で、昭和四八年一月三日か四日に歳谷から小切手が盗まれたらしいという話を聞いて、翌日、状況を確かめ、できるだけの情報を得るために歳谷とともに児玉宅を訪れた旨証言していることが認められ、この証言が虚偽のものであるとする根拠はない。

控訴人らの指摘するとおり、福田は、昭和四八年一月初めにニューヨークから帰国し、クラッターとともに児玉宅へ行き、盗難被害の内容等を聞いた旨供述しているが(〈書証番号略〉)、この供述は、一月四日頃にクラッターと歳谷とが児玉宅を訪れて盗難に関する話を聞いたという事実と必ずしも矛盾するものではない。

大刀川(〈書証番号略〉)及び控訴人児玉睿子(〈書証番号略〉)は、刑事事件の公判において、昭和四八年一月四日に外国人と歳谷が児玉宅を訪れた事実はないと供述しているが、信用することができない。

ウ 例えば〈書証番号略〉の本文の五四〇頁から五四三頁においては、盗難小切手に関する問答をする際に、小切手については、「check」という表現が用いられており、クラッターの「摘要」においても、小切手については「BC」又は「CC」という略号が用いられている。

しかし、「Document」という英語の表現が小切手を意味することがありえないこと、あるいはクラッターがこの単語を小切手を意味するものとして使用することがありえないことを認めるに足りる証拠はない。むしろ、〈書証番号略〉によれば、クラッターの証人尋問において右の表現が小切手を意味するものとしては適切ではないのではないかというような質疑応答は何らされていないのであって、尋問関係者もこの点に疑問を抱いた形跡は窺われない。

また、クラッターが、小切手のほかに書類も盗難にあったと聞いて、「Documents」と記載したことも考えられる。

したがって、クラッターの日記の記載を根拠に、クラッターは、盗難にあったのは小切手ではなく重要書類であると聞いたものであると認めることはできない。

エ オッツィ(ロッキード・エアクラフト・インターナショナル・AGの総支配人)のバロウ(ロッキード社財務部副部長)宛一九七三年(昭和四八年)一月二二日付け書簡(〈書証番号略〉)に控訴人ら主張のような記載があることは当事者間に争いがないが、右の記載は、実際に盗難にあったのは小切手であることを前提にした上で、しかし警察の証明書には必ずしもそのとおりに記載されている必要はなく、「高価な物品」が盗まれたことが書いてあれば足りるとしているのであって、何ら控訴人らの主張を裏付けるものではない。

オ クラッターと歳谷が児玉方に赴いて盗難被害を確認したというのが虚構であるとの主張が採用し難いものであることは、既に述べたとおりである。

カ 盗難被害届出済証明書に関する福田の供述調書(〈書証番号略〉)の内容は控訴人ら主張のとおりであって、小切手の盗難について必要な証明はクラッターが児玉宅へ行き受け取ったというものであるところ、クラッターは「盗難に関して作成された警察の証明書を見たことがあるか」という質問に対し「覚えていません。証明書を見たという記憶はありません。」と答えている(〈書証番号略〉)。しかし、クラッターの「記憶がない」という証言が直ちに福田の供述と食い違うものであるとはいえない。なお、クラッターは、「日本で警察の証明書のコピーを入手しようとしたことがあったのですか。」という質問に対し「覚えていません。私がこれを手に入れることができたかもしれない唯一の場所は、児玉氏のところだったでしょう。私は、警視庁や、他の人からコピーを手に入れようとしたことはありません。」とも証言しており(〈書証番号略〉)、児玉から受領した可能性を否定していない。

また、〈書証番号略〉によれば、ロッキード社は、ドル小切手の無効確認を求める訴えをジュネーヴ裁判所へ提起する準備を進め、オッツィーらはスイス・クレジット銀行とも会合をして対策を検討し、盗難に関する警察の証明書、児玉の右訴えについての委任状等右訴えのために必要な文書を揃えようとしたこと、右スイス・クレジット銀行との会合において、右銀行の法律顧問は、「盗難小切手が呈示された場合には、スイス・クレジット銀行は、これを支払わざるをえないであろうが、その場合につき、ロッキードとの間に何らかの約定ができれば、たとえキャンセルのための手続が採られていなくとも、振出日の六か月(小切手の有効期間)後には、スイス・クレジット銀行は新たに小切手を振り出す意思がある。」旨強調したこと、キャンセルのための手続(三か月間)が終了する時期と小切手振出後六か月経過する時期とがおおむね一致するであろうという見込みであったこと、結局、ロッキード社は、スイス・クレジット銀行と相談した結果、右手続を実行せずに、一定期間(六か月)を経過させるという方法を採ることに銀行と合意したこと(六か月経過後に小切手を再発行するという合意ができたものと推認される。)が認められる。したがって、盗難被害届出済証明書がスイス・クレジット銀行に送付されなかったとしても何ら不自然ではない。

キ ロッキード社がドル小切手を無効にする手続を結局採らなかった理由は右に認定したとおりである。

また、右手続は結局採られないことになったのであるから、その手続のために必要な委任状に児玉の署名を求めなかったとしても、当然である。

控訴人らはドル小切手が再発行された事実はないと主張する。しかし、〈書証番号略〉によれば、ロッキード社と児玉は、一九七三年(昭和四八年)五月二一日、盗難にあった合計約一六七万米ドルの小切手に関し、「ロッキード社は児玉のため、スイス・クレジット銀行をして合計一六六万六六六七米ドルの流通証券を再発行させることにしてくれました。児玉は、ロッキード社が右の再発行に係る証券を換金したものを児玉に交付するということを了承する。」旨の契約(損失補償契約書)を締結したことが認められ、ドル小切手の穴埋めとして昭和四八年五月二四日から六月一二日までの間に合計四億四〇〇〇万円がロッキード社から児玉に交付されたことは原判決認定のとおりであるから、ドル小切手が再発行されたことは明らかである。なお、福田は、穴埋資金をクラッターが児玉に交付した際に、クラッターは、「前に渡したと同額のドル小切手を日本円にかえてきたが、為替レートが変わっているので、五億円より少なくなっている」と言っていた、と供述しており(〈書証番号略〉)、この供述によってもドル小切手が再発行されたことが裏付けられる。

なお、控訴人らは、ロッキード社は、児玉宅で発生した盗難事件を利用して、ドル小切手が盗まれたという仮装工作をしたものであると主張するが、被控訴人が反論を加えているとおり、控訴人らの主張は、ロッキード社側が、児玉宅に泥棒が入り、クラッターが預けておいた重要書類なるものが盗難にあうことを予想して、これを児玉に預けておいたということを前提にして初めて成り立つ推論であって、到底首肯することはできない。

③ア ドル小切手について支払呈示があったという証拠はない。むしろ、コーチャンは、「我々は、ドルの持参人払小切手の支払を停止し、私の知るところではそれらはこれまで呈示されませんでした。」と証言し(〈書証番号略〉)、福田も、「盗難小切手について、銀行の支払いは食い止められたことが確認出来たとクラッター氏が言っており、そのころクラッター氏が、児玉さん宅へ現金の包みを持って行きました。」(〈書証番号略〉)、「クラッター氏は、児玉さんに会って、盗難小切手が誰れにも換金されていないことが確認出来たので、その分の支払いとして現金を持って来たということを説明したうえ『前に渡したと同額のドル小切手を日本円にかえて来たが、為替レートが変わっているので、五億円より少なくなっている』と言い、……」(〈書証番号略〉)と供述している。したがって、ロッキード社としては、児玉に再度支払をしても、二重の負担をするわけではない。ドル小切手の穴埋めの現金が交付されたとしても何ら不合理ではない。なお、前記損失補償契約書(〈書証番号略〉)には、再発行に係る証券を換金したものを児玉に交付する条件として、もし盗難小切手が支払われるか、支払のため呈示され、ロッキード社がスイス・クレジット銀行からかかる盗難小切手について償還請求を受けたときは、児玉はロッキード社に対し、ロッキード社がスイス・クレジット銀行に償還する額全額を償還して支払うこと、児玉はこの義務を今後一〇年間負うこととの条項が含まれていることが認められ、ロッキード社は損害が生ずる場合についての配慮をしているものというべきである。

右損失補償契約書について、クラッターは、児玉はこの契約書の原本に署名したと思う、それがクラッターのいる所であったか、誰か他の人から手渡されたのかは思い出せない、原本はバロウかオッツィに回したと思う、そのコピー(〈書証番号略〉)の署名欄に記載されている「OK」という文字は、自分の筆跡かもしれない、ほかに署名された原本があるということを示すために自分はこの記号を用いたことがある、と証言しており(〈書証番号略〉)、十分な記憶はないものの、その証言はあいまいではないし、署名欄の「OK」という記載についても説明はされている。

その原本が提出されていないこと、福田が右契約書について供述していないことから、直ちにこれが存在しないと断定することはできない。福田も、クラッターは、盗難ドル小切手の支払がされたか、支払を食い止めることができたかが判明するには五、六か月かかる、支払が食い止められたことが確認されれば、児玉に五億円の小切手金の支払をする、と言っていた、そして昭和四八年五月頃、クラッターは支払が食い止められたと言って、児玉宅へ現金の包みを持って行った、その際、クラッターは児玉に、前に渡したときの為替レートとの差があるので五億円より少し少ないと述べ、児玉は仕方ないなと言っていた、と供述しており(〈書証番号略〉)、盗難小切手の穴埋資金が支払われたことを大筋において裏付けている。

イ 〈書証番号略〉には、昭和四八年三月から同年一二月まで行われた児玉宅の改築工事の状況として、解体しないことになっていた残存建物部分も全部閉め切って出入りできないようにしたとの部分(〈書証番号略〉)、あるいは、残存建物部分は戸締りして閉め切ってあり、児玉の妻が風通しをするために出入りしたり、児玉自身が時々出入りする程度であったとの部分(〈書証番号略〉)、さらには、残存建物部分は事実上閉鎖して、蔵の物を取りに行く程度であったとの部分(〈書証番号略〉)があり、いずれも残存建物部分の電気、ガス、水道は使用できないようになっていたとする。

しかし、〈書証番号略〉は、解体以前からあった正門及び裏門は閉鎖されていなかったとし、〈書証番号略〉は、残存建物部分については、改築のため若干の荷物を運び込んだ部屋もあるが、全く荷物を入れなかった部屋(仏間)もあったとする。

そして、〈書証番号略〉によれば、昭和四八年四月一二日に行われた児玉宅の実況見分(児玉宅における猟銃の窃盗事件について行われた。)の際には、残存建物部分の内外は特別雑然とした様子ではなく、空き家にして放置されているとは見えなかったことが認められる。また、〈書証番号略〉によれば、児玉宅においては、昭和四八年中、引き続き電力、水道の使用がされ、児玉睿子名義の二個の加入電話については、昭和四八年四月から一二月まで毎月電話料金の支払がされており、局預かりの措置は講じられていないこと(ただし、一台の電話については昭和四八年三月と一二月に親子電話の取り付け工事がされ、他の一台の電話についても同年一一月に親子電話の取り付け工事がされている。〈書証番号略〉によれば、控訴人児玉睿子は、親子電話は引いていないと証言しているが、事実に反する。)が認められる。なお、児玉宅の改築工事に従事した高橋隆は、残存建物部分についての電線は切断し、水道の配管も切断して、工事用だけに電気、水道を使用したと証言しているが(〈書証番号略〉)、電気、水道の配線、配管の詳細かつ正確な状況は知らないとも証言しており、電気、水道が工事用だけに使用されていたと断定することはできない。

以上の事実によれば、改築工事期間中も、残存建物部分は全く使用されていなかったということはなく、この部分で訪問客と会うことは可能であったと推認することができる。電気、水道、ガス等の使用が可能であったかどうかは、明らかではないが、仮にこれらの使用はできなかったとしても、現金等の授受が不可能であるとはいいきれない。

なお、控訴人らは、クラッターは穴埋資金を応接室から仏間まで運んだことになると主張しているが、福田は、〈書証番号略〉において、クラッターが穴埋資金四億四〇〇〇万円位を「奥の部屋」まで運んだと供述しており、授受の場所ないし運搬した先がどこであるのか、必ずしも明らかではない。〈書証番号略〉によれば、大刀川は昭和五〇年七月にクラッターが持参した約八〇〇〇万円について、応接間で受け取り、仏間まで運んだと供述していることが認められるが、これ以外の授受の場所ないし運搬先がありえないと断定する根拠はない。

ウ 〈書証番号略〉(香港ディーク社ブリンクの一六六万六六六七米ドルの受領証)には換算率の記載はないが、〈書証番号略〉によれば、ロス・ディーク社のロッキード社宛外国送金受領証には換算率(一ドル当たり二六四円)の記載があることが認められる。したがって、〈書証番号略〉の受領証に換算率の記載がなくとも、格別不都合はないものと考えられる。また、〈書証番号略〉には、日付として一九七三年(昭和四八年)五月一八日、受領先としてロッキード、金額として一六六万六六六七米ドル、支払先として「東京への送金」との記載があるのであるから、これがロッキード社が香港ディーク社に対して送金した日本向け円貨の資金の領収証ではないとする根拠はない。なお、前記外国送金受領証には送金先の記載がある。

次に、控訴人らは、読売新聞の記事(〈書証番号略〉)を根拠に、ドル小切手は児玉に渡されていないと主張するが、一方的で合理性のない推測であるといわざるをえない。

さらに、ロッキード社の香港ディーク社に対する送金資金の支払が五月一八日であるのに対し、ロッキード社のロス・ディーク社に対する円の買注文が五月一一日と三一日にされていることについても、直ちに不自然で不合理であるということはできない。この点に関して被控訴人が主張するような事情があった可能性も十分にありうると考えられる。

そして、〈書証番号略〉によれば、ロス・ディーク社の支配人であるケリーは、米国証券取引委員会において、外国送金受領証の五月一一日と三一日の日付の違いをうまく説明できるかとの質問に対して、「いいえ、できません。」と答え、五月一一日及び三一日付けの領収証と五月一八日付けの領収証との関連をどのようにして説明するかとの質問に対しても、「いいえ、私は、その遅れた理由や第二の領収証を作成した理由を説明するのに困っています。」と答えていることが認められる。しかし、ケリーは、「この電信は、私がロスアンジェルスで誰かがロッキードからディーク・ホンコンにこの金を支払う旨聞かされたに違いない旨言っているように説明していると、私には思われます。そして、私は、そのことを電信を送った際に電信に入れました。そして、おそらく我々が受取りの確認を受けた時に、我々は追加分の領収証を作ったのでしょう。」と答えており、また、「貴方は、ロッキードが何故支払に対して何も受け取ることなく幾週間にわたって、その口座に保管する為約百万ドルをディークアンドカンパニーにやたらに支払っていたのか、それがどんなものであれ、何か理由を知っていますか。」(質問)、「貴方はロッキードに聞くべきですよ。金額は百万ではありません。彼等は支払い…我々は直ちに彼等に七〇〇、〇〇〇ドルの領収証を渡しました。」(答え)、「それでは、約九〇〇、〇〇〇ドルの残高が残ります。」(質問)、「私は知りません。その日は率が良かったのではないでしょうか。そして彼等は買うことに決めた。私は彼等に同じ率であげたのに気付きます。我々は一ドルにつき二六四の率が彼等にあげたので、おそらくそれが理由で、彼等は全額を買うことを決めたのでしょうが、でも私は実際に正確に何故かは知りません。」(答え)との応答もしているのであって、ケリーは、詳細についての十分な記憶はないものの、一六六万六六六七米ドルの送金に関する概括的な事実を供述している。

控訴人らは、右の「ロッキードが…その口座に保管する為約百万ドルをディークアンドカンパニーにやたらに支払っていた」との質問を根拠に、ロッキード社は「日本向送金資金の支払」を仮装してロス・ディーク社の口座に資金を払い込み、これをプールしていたと主張するが、極めて一方的な推測に基づくものであって到底是認することができない。

エ メモ領収証(〈書証番号略〉)の三段にわたる「誉士夫 誉士夫 児玉誉士夫」という署名について、児玉は自分が書いたことを認めている(〈書証番号略〉)。その事情について〈書証番号略〉には控訴人ら主張のような記述がある。しかし、この署名は、メモ用紙の罫線をまたいで記載されているなど、一見して宋の壺を入れるガラスケースに付ける「贈呈者の名を刻んだプレート」を作るためのものとしてはふさわしくないことが明らかである。また、このようなプレートであるとすれば、児玉が贈呈した旨の文言も刻まれると思われるが、そのような文言は付されていない。〈書証番号略〉によれば、署名を福田に渡したのは昭和四九年一月頃であるが、その後福田は壺を取りに来ないまま昭和五一年二月下旬の捜索の際に差し押さえられたというのであって(壺の差押えについては、〈書証番号略〉によっても認めることができる。)、極めて不自然である。

そして、メモ領収書の体裁は、三つの日付に対応して三個の署名があるのであるから(〈書証番号略〉によれば、クラッターは、金員を交付した都度児玉が署名したと証言している。)、この両者が対応していないとはいえず、領収証としてありえない形状のものであるともいい難い。

また、クラッターは、メモ領収証について、記載は金員交付のされた日付ごとに順次されたものであり、児玉は交付の都度署名したと証言している(〈書証番号略〉)。クラッターは、児玉の署名、押印が自分の面前でされたかどうかは思い出せないと証言しているが、この点をとらえてその証言があいまいであるとはいえない。また、五月二四日の領収が二段に分かれて記載されていること、押印が二個所であること等については、その理由は明らかではないが、直ちにクラッターの証言が信用できないとか、この領収証が偽造であるとかということはできない。

クラッターが右メモ領収証をロッキード社に送付しなかったことが何ら不合理ではないことは被控訴人の主張するとおりである。

なお、〈書証番号略〉によれば、福田は、穴埋資金の領収証について、「この時渡した金は、前に小切手で支払い、その際児玉さんから領収証をもらってあったので、この時あらためて又児玉さんから領収証をもらうようなことはしませんでした。」と供述していることが認められるが、メモ領収証は正式の領収証の用紙ではなく、メモ用紙に記載されたものであるので、福田としては、これが領収証であるという認識を持っていなかったとも考えられる。福田の右供述を根拠に、前記クラッターの証言が信用できないと断定するのは早計である。

④ 〈書証番号略〉によれば、控訴人ら主張のニューズウィーク誌にその主張のような内容の記事が掲載されたことが認められるが、この記事の根拠は明らかではないから、直ちに採用することはできない。また、これだけの簡単な具体性に欠ける記事では、どのような金銭又は小切手が、何者によって、どのようにして不正に取得されたというのか明らかではなく、本件ドル小切手との関連性も必ずしも明確ではない。

また、〈書証番号略〉によれば、ニューマン報告書に関する付属提出書類に控訴人ら主張のような記載があることが認められるが、被控訴人の指摘するように、右付属提出書類には、この記述に引き続いて「彼(メイヒュー)は、また、アーサー・ヤング(事務所)は、この支払の『合法性あるいは道義性』について判断を下す立場にはないと述べた。」「彼は、さらに、会計監査委員会に『われわれは、この金の最終的使途について確たる証拠をもっているわけではないし、この処理がロッキード社が述べたように行われなかったと確信する理由もない』と述べた。」との記述があるのであるから、アーサー・ヤング事務所が、「日本における持参人払小切手による支払」が合法的なものではないとか、この小切手の使途に関するロッキード社の説明が事実に反するとか断定したものとはいえない。また、この断片的な記述からは、「大規模で異常かつ監査不能な取引」や「日本における現地通貨と持参人払小切手による支払」が具体的に何を意味するのか必ずしも明らかではなく、本件ドル小切手についての言及であるかどうかも明確ではない。

2  二〇万ドルの支払について

(一) 控訴人らの主張〈省略〉

(二) 被控訴人らの反論〈省略〉

(三) 当裁判所の判断

(1) 〈書証番号略〉によれば、クラッターは、二〇万ドルの交付に関し、次のとおり証言している。

① 昭和四八年一〇月中旬ころ、児玉は、クラッターに対し、自分は小佐野に対して支払う義務があるので、ロッキード社が児玉に支払う報酬のうち二〇万ドルを、東京ではなくして米国内で小佐野に支払ってもらいたいと要求した。児玉は、この二〇万ドルを小佐野に支払う理由や支払義務の根拠については何も言わなかった。小佐野がL―一〇一一の販売計画を助けたということは聞いていた。

クラッターは、そのような支払が可能かどうかロッキード社に問い合わせたところ、児玉の要求に応じ、米国内で交付してよいという返事であった。

② そこで、児玉の要求する方法で二〇万ドルの交付をすることになり、当初は、ロスアンゼルスでクラッター以外の者が交付することになっていたが、児玉から、クラッターに対し、クラッターが自ら米国へ出かけて、授受が適切に行われるように立ち会ってもらいたいとの要望があったので、クラッターは、コーチャンの承諾を得て、ロスアンゼルスでの授受に立ち会うことにした。

③ クラッターは、シャッテンバーグ(ロッキード社の系列会社であるロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレイテッドの財務担当者)に授受の際に同席することを頼み、このことについてコーチャンの同意を得た。

また、クラッターは、一〇月三一日、ロッキード社のバロウと、電話で、小佐野に支払う金員の支払準備について話し合い、確認した。

クラッターは、東京を一一月二日午後七時発のヴァリグ航空で発ち、同日ロスアンゼルスに到着した。

翌三日、クラッターは、自分の車で出かけ、途中ロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレイテッドの事務所でドル紙幣入りの黒皮のアタッシェケースを持ったシャッテンバーグを乗せてロスアンゼルス空港に赴いた。

クラッターとシャッテンバーグは空港で小佐野の飛行機の到着を待った。

④ 小佐野は、ホノルル発の飛行機で到着し、クラッターとシャッテンバーグは、ユナイッテッド航空に依頼して確保した同航空の個室で小佐野に会った。

小佐野は、五人ないし一〇人の日本人グループと一緒であったが、そのグループを離れて一人で前記個室でクラッターらと会った。

クラッター又はシャッテンバーグは、ドル紙幣入りのアタッシェケースを小佐野に渡し、クラッターはその鍵を小佐野に渡した。小佐野はアタッシェケースを開けて中を確認し、「ありがとう。」と言った。小佐野は急いでいる様子であった。

小佐野から領収証は受け取らなかった。二〇万ドルに対する領収証は児玉が作成した。

そして、以上の証言に符合する次のような事実ないし証拠の存在が認められる。

① 〈書証番号略〉によれば、ロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレイテッドは、昭和四八年一〇月三〇日、支払理由を「L―一〇一一 マーケッティング サービス」とし、ディーク・アンド・カンパニーを受取人とする同日付けの額面二〇万ドルの小切手一通を振り出し、シャッテンバーグがその引渡依頼書の承認者欄及び小切手の振出人欄に署名していること、右小切手は同年一一月一日に支払済みとなっていることが認められる。

② 〈書証番号略〉によれば、クラッターは、昭和四八年一一月二日に羽田から出国し、同月一三日に羽田から入国していることが認められる。

③ 〈書証番号略〉によれば、小佐野は、国際興業株式会社の副社長ら四名を同行して、昭和四八年一一月二日午後一〇時一〇分発の日本航空七二便で東京を発ってホノルルに行き、翌三日ホノルル発のユナイテッド航空一一四便でロスアンゼルスに向かい、午後四時一八分頃ロス空港に到着したこと、その後小佐野らはラスベガスへ行き、同月八日に帰国したことが認められる。

④ 〈書証番号略〉によれば、クラッターは、昭和四八年一〇月二六日には、ロッキード社のミッチェル宛に「一〇月二九日の週、東京ベースの職員の旅行予定はない。」とファックスで連絡していたが、一一月二日には、ロッキード社のウイット宛に「ホテル予約ありがとう。ヴァリグ八三一便にて一一月二日金曜日一二時正午に着く。」とファックスで連絡したことが認められる。

⑤ 〈書証番号略〉によれば、日本航空ロスアンゼルス支店のVIP係の麻野冨士夫は、検察官に対して、「昭和四八年一一月三日、ロスアンゼルス空港でユナイテッド航空でホノルルから到着した小佐野の一行を出迎えた。」「出迎えの外人がいたことなどから私の記憶に残っていることもあり、この時に限って小佐野が一行から離れて私達がその辺でぶらぶらして待っていた記憶がある。」「外人と一緒であったかどうかその記憶はないが、小佐野が私達の所からいなくなったことは確かである。私達は小佐野をジェットウェイの近くで出迎え、それからエスカレーターの方に二、三〇メートル歩いたと思う。しかし、その時は既に小佐野はいなかったように思う。そこで、私達は小佐野がいないので、その辺で待っていた記憶がある。小佐野が来るのを他の一行の人達と一緒にその辺にぶらぶらしながら待っていたように思う。」と供述していることが認められる。

⑥ 〈書証番号略〉によれば、昭和四八年一一月二六日付けのシャッテンバーグからクラッター宛の同年中の支払について確認する書簡の中に一一月三日に二〇万ドルが支払われた旨の記載があり、これに対するクラッターの翌年一月九日付けの返事にも、昭和四八年一一月三日に二〇万ドル(五三〇〇万円)の支払がされ、その領収証(各二六五〇万円の領収証二枚でカバーされる。)を送付済みである旨の記載があることが認められる。

⑦ 〈書証番号略〉によれば、コーチャンは、「一九七三年一一月三日にクラッターとシャッテンバーグがロスアンゼルス国際空港で小佐野に対して米国通貨で二〇万ドルを渡したということを知っていた。クラッターから私に、彼は児玉から児玉のためにそういう手配をしてくれと頼まれているとの報告があり、私はそれに同意し、その支払が米国内でされることを承認した。クラッターは、小佐野自身権利があってそれを受け取ることとなっているとは報告しなかった。その支払は、児玉の要求によって米国ドルでされることになっていた。わが社の人間が処理できないような障害が政府レベルで発生する度に、まず丸紅に頼み、もし彼らが満足すべき結果を得られない時は我々はそれを児玉か小佐野に頼んだ。私は、小佐野が続けて、引き続き援助してくれていたと思う。クラッターからその支払が事故もなくされたという報告を受けた。」と証言していることが認められる。

さらに、クラッターの証言を検討すると、〈書証番号略〉によれば、クラッターは、摘要の一九七三年(昭和四八年)一一月三日の欄に「二〇〇K」「EHS」と記載されている意味について質問され、「この交付については、私は、児玉氏から、その手数料を小佐野氏に支払うようにと、いいかえれば、児玉氏に支払うべきその額の手数料を小佐野氏に支払うようアレンジしてくれと要求されたのです。」と自発的に証言をしており、引き続いての質問に対して、順次、その金額が二〇万ドルであって支払がドルでされたこと、ロスアンゼルス空港で小佐野にシャッテンバーグ同席のもとに渡したことなどを供述しているのであって、このような経過に照らして、その証言の信用性は高いものと考えられる。

また、クラッターは、二〇万ドルが授受された部屋に関しては、一九七六年(昭和五一年)九月二三日の嘱託尋問において、検察官が「それはユナイテッド・エアラインのレッド・カーペット・ルームでしたか。」との質問に対し、「部屋の呼び名は知りません。」と答え(〈書証番号略〉)、同月二九日の尋問の際に、検察官からロス空港のユナイテッド航空のターミナル・ビル(サテライトビルディング7)の平面図三枚(〈書証番号略〉)を示して授受の行われた部屋の特定を求められたのに対し、「確か私の記憶によれば、それは小さな個室で、乗降客が飛行機のところに行く、ジェットウェイという名であったと思いますが、通路と同じ階にありました。」と供述している(〈書証番号略〉)。そして、〈書証番号略〉によれば、尋問後の一九七七年(昭和五二年)六月二四日、前記尋問を担当した検察官がクラッターとロスアンゼルス空港のユナイテッド・エアライン・ターミナル(サテライト7)で会い、授受のされた部屋の特定を求めたところ、クラッターは、ゲート76及び78に近い場所にあるプライベートルームをその部屋として特定したこと、右プライベートルームは、ジェットウェイと同じ階にあること、そして、右のプライベートルームは、昭和五三年九月当時(東京地方検察庁検察官がロスアンゼルス国際空港の実況見分をした時点)はユナイテッド・エアラインズの運航要員により、乗務員の会合や説明会のために使われており、その内部の模様は一九七三年(昭和四八年)一一月当時と異なっているが、一九七三年(昭和四八年)一一月当時はユナイテッド・エアラインズのターミナルの唯一のVIPルームであり、ユナイテッド・エアラインズの顧客が請求により使用することができたものであって、この部屋は一九七〇年(昭和四五年)八月から一九七六年(昭和五一年)一〇月までVIPルームとして使用されていたこと(すなわち、クラッターが特定した一九七七年(昭和五二年)当時はもはやVIPルームではなかった。)が明らかになったことが認められる。このように、クラッターは、検察官から、授受のされた部屋について、レッド・カーペット・ルーム(〈書証番号略〉によれば、この部屋は、サテライト7の到着出発ロビーの一階上の中二階にあり、一九七三年当時から存在しており、同ルームのメンバーとそのゲストの利用に供されていたことが認められる。)ではないかとの誘導的な質問を受けても、自己の記憶のとおりに答えており、その記憶が客観的事実に合致していたのであるから、クラッターの記憶が正確であり、クラッターは記憶のとおりに証言していたことになる。したがって、この点からしても、その証言の信用性は高いものということができる。

控訴人らは、クラッターが、児玉から要請を受けたという日時、場所、経緯を明らかにしておらず、二〇万ドルの交付に立ち会ってもらいたいという児玉からの要請についても、その日時、場所、状況等について具体的な供述がなく、仲介者も明らかにしていないと主張するが、このような点は、以上述べた事実に照らし、クラッターの証言の信用性を減ずるものではない。

なお、小佐野は、検察官に対しても(〈書証番号略〉)、刑事事件の証人尋問においても(〈書証番号略〉)、ロスアンゼルス空港でロッキード社の者から現金を受け取ったことを否定しているが、信用することができない。

(2) 〈書証番号略〉によれば、クラッターは、児玉からの二〇万ドルの交付の要求に関し、その要求は直接だったはずであると証言し、「福田氏はその面談で通訳をしましたか。」との質問に対し、「その問題について私が児玉氏と実際に会ったのか、それとも福田氏を通じてその要求を聞いたのか、はっきりしません。絶対確実なことは言えません。私は面談しただろうと思いますし、いずれにせよ、福田氏が居たのではないかと思います。」と証言している。

一方、福田の検察官に対する供述調書(〈書証番号略〉)には、二〇万ドルの授受に関する供述はない。しかし、〈書証番号略〉によれば、福田に対する検察官の取り調べの状況は被控訴人主張のとおりであったものと認められるから、福田が積極的に二〇万ドルの授受に関して供述しなかったとしても、不合理ではなく、クラッターの証言と矛盾しているとはいえない。また、〈書証番号略〉によれば、福田は昭和五一年六月一〇日に死亡したことが認められるが、クラッターらに対する嘱託尋問の尋問事項には二〇万ドルの授受に関する事項は含まれていないこと(この事実は〈書証番号略〉によって認められる。)と、〈書証番号略〉(クラッターに対する昭和五一年九月二三日の尋問調書)によれば、クラッターはこの日初めて自ら進んでロスアンゼルス空港における二〇万ドルの授受についての証言を始めたものであることが窺われることによれば、検察官が右二〇万ドルについての詳細な事実関係を探知したのは、右の昭和五一年九月二三日(福田の死亡後である。)のクラッターの証言によるものであると推認することができる。

また、福田は、検察官に対して、昭和四八年一一月三日付けの二六五〇万円の領収証二通は、「これもすでに申したような状況で私が英訳してやったものに間違いありません。」と供述しているが(〈書証番号略〉)、この供述が、二〇万ドル相当の五三〇〇万円は昭和四八年一一月三日に児玉の自宅でクラッターから児玉に渡されたということを意味するものではないことは明らかである。

(3) 〈書証番号略〉によれば、歳谷は、クラッターを小佐野の所へ案内したことに関して、① 昭和四八年一〇月末から一一月初め頃で福田が海外旅行中に、児玉からJPR社に電話があり、小佐野がアメリカに行く件に関し、クラッターに伝え、アポイントメントをとって小佐野の所へ連れて行くようにとの話があった、② そこで、クラッターの事務所へ出かけてクラッターに会い、電話の趣旨を伝えたところ、アポイントメントをとってもらいたいと要請されたので、国際興業に電話してアポイントメントをとった、③ その当日、クラッターと国際興業に出かけたが、一階事務所でクラッターから帰ってよいと言われて、話合いには同席せずに先に帰った、と証言していることが認められる。

また、〈書証番号略〉によれば、歳谷は、検察官に対しても、昭和五一年一一月二四日に、ほぼ同旨の供述をしていることが認められる。すなわち、児玉からの電話は、「国際興業の小佐野がアメリカに行かれる件について、クラッターに会いたいと言っているから、君(歳谷)の方でクラッターと連絡をとって、小佐野と時間を打ち合わせ、クラッターを小佐野の所へ連れて行ってくれ」という内容であり、その際、このほかに、「小佐野がアメリカでクラッターから受け取りたいと言っている」とか、「小佐野がクラッターにもアメリカに行ってもらいたいと言っている」ということも言ったような気がする、というのである。

そして、クラッターも、昭和四八年一〇月三〇日の日記の「T/トシ」との記載について、Tは児玉のことであり、トシというのは歳谷のことであると述べ、「それがあなたが金の授受に立ち会うよう要求された際の会合だったかどうか思い出せますか。」との質問に「そうだったかも知れません。私は現在記憶していません。」と答え、続いて「その要求があなたにされた時、トシタニ氏はその場にいたかどうか覚えていますか。」との質問に「確かなことは言えません。しかし、児玉氏は英語を話さなかったので、誰かいっしょにいたと思います。」と答えている(〈書証番号略〉)。歳谷が小佐野との会合のアポイントメントをとったこと、歳谷と国際興業に出かけたことなどについては証言していないが、正確、詳細な記憶がないだけであって、歳谷の証言等とクラッターの証言が矛盾しているとはいえない。むしろ、歳谷の証言等は、クラッターの証言を裏付けるものである。

歳谷は、検察官に対して昭和五一年一一月二四日に供述したときには自分の記憶のとおりに述べたが、証言時(昭和五三年五月一八日)には、その後の報道記事等と記憶とがごっちゃになってしまい、どこまでが自分の記憶なのか分からなくなってしまったと証言しているが(〈書証番号略〉)、前記のとおり、検察官に対する供述とその後の証言の内容はほぼ一致しているのであるから、同人の証言も信用することができる。

また、クラッターが歳谷を国際興業まで案内させたこと、案内させながら話合いには同席させずに帰らせたことも、必ずしも不合理、不自然ではない。児玉が小佐野の渡米日程を知らなかったことを認めるに足りる証拠はなく、児玉は自ら電話のダイヤルを回すことはなく、必ず大刀川などに電話をかけさせる旨の大刀川の証言(〈書証番号略〉)は、信用できない。

(4) クラッターは、二六五〇万円ずつの二通の領収証を児玉が作成したと証言しているにとどまるが(〈書証番号略〉)、それ以上の具体的な事実や領収証が二通に分かれている理由などについて証言していないからといって、クラッターの二〇万ドルの授受に関する証言が虚偽のものであるということはできない。

また、福田は、児玉名義の領収証について概括的に「一つ一つ正確に記憶はしていないが、日本語の領収証の日付の一日か二日位後位までの間の日に頼まれた記憶であり、中にはそれより多少日数が前後したことも一、二ある」と供述し、昭和四八年一一月三日付け二六五〇万円の二通の領収証についても「これもすでに申したような状況で英訳してやったものに間違いありません」と供述しているが(〈書証番号略〉)、「すでに申したような状況」というのが英訳の時期までも含むのか必ずしも明らかではなく、二六五〇万円の二通の領収証も昭和四八年一一月三日の一、二日後に福田によって英訳されたものであると断定しているものと解することはできない。したがって、この時期にはクラッター及び福田が在日していなかったからといって、直ちに福田の右供述が虚偽のものであるということはできない。

(5) 〈書証番号略〉によれば、ニューマン報告書付属提出書類の二〇万ドルに関する記述は被控訴人主張のとおりのものであることが認められるところ(二〇万ドルは、クラッターとシャッテンバーグが、米国内で、「日本航空会社の有力者であり且つ株主である人物」に対し渡したと記述されている。)、この記述から直ちに児玉が右二〇万ドルに関与していないことを右委員会が認めているとの結論を導くことはできない。

また、右付属提出書類が児玉領収証の信憑性は疑わしい旨指摘したからといって(この指摘については後に六一〇頁以下において述べる。)、右指摘だけから、同委員会が児玉が二〇万ドルについて関与していないことを認めたものであるとの結論が導かれるものではない。

(6) 児玉の小佐野に対する支払義務の内容、なぜ児玉が小佐野にロスアンゼルス空港で二〇万ドルを交付するようにと申し出たのか、小佐野も児玉も二〇万ドルの授受自体を否認していることもあって、明らかではない。しかし、原判決認定のように、L―一〇一一型機の販売について小佐野の協力を得るためにロッキード社が五億円を児玉に支払う旨の合意が成立した事実があり、小佐野自身も、刑事事件の被告人質問において、コーチャンに二回は会っていると供述し(〈書証番号略〉)、検察官に対しては、コーチャンに三回位会い、全日空にトライスターが売れるように協力してもらいたい旨の依頼等があったと供述しており(〈書証番号略〉)、小佐野が児玉とともにロッキード社のL―一〇一一型機の販売について尽力したことは疑いをいれないところである。

したがって、児玉への報酬の一部が小佐野に支払われたとしても、何ら不合理ではなく、控訴人らの、児玉に無関係に支出された二〇万ドルを児玉の要請で小佐野に渡したように仮装したものであるとの主張は根拠のないものであって、採用することができない。

3  ロッキード社から児玉への資金の動きについて

(一) ロッキード社からの資金の支出状況

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

ロッキード社から児玉に至る資金の流れは、明らかにされており(原判決の理由三(訂正後のもの)、1、(二)、(1)、②、ウの後段。〈頁数略〉)、それ以上に送金の日時、方法、金額、関与者の詳細が明らかになっていないからといって、児玉がその自認する金額を超える金員をロッキード社から受領していないとはいえない。

また、〈書証番号略〉によれば、ニューマン報告書の付属提出書類には、「ロッキード社の帳簿にクラッターが保有する円貨『在庫金』に関する記録がないことに注目すべきである。」との記載があることが認められるが、右付属提出書類には、同時に、被控訴人が主張するように、ロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレイテッド及びロッキード・エアクラフト・インターナショナルAGによる円貨の購入、ロッキード・カリフォルニア・カンパニーに対する請求と同社における経理処理についての記載もあることが認められる。そして、この事実から、円貨の購入に関して、被控訴人主張のような経理処理がされたものと推認するのは合理的であり、クラッターの在庫金に関する記録がロッキード社の帳簿になくとも、不自然ではないと考えられる。なお、クラッターは、「摘要」とロッキード社の記録とを照合したと証言しており(〈書証番号略〉)、〈書証番号略〉によれば、クラッターは、「摘要」とシャッテンバーグの記録との照合もしていることが認められるから、ロッキード社にもクラッターの保有している在庫金に関する何らかの記録はあったものと推認することができる。

さらに、付属提出書類(〈書証番号略〉)には、「一九六九年六月一一日から一九七五年三月四日までに、一七億九四〇六万五〇〇〇円(約六四〇万ドル)の円貨がロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレイテッド又はロッキード・エアクラフト・インターナショナルAGのいずれかによって購入され、『L―一〇一一販売促進サービス費』としてロッキード・カリフォルニア・カンパニーへ請求された。」旨の具体的金額の記述があるから、いつ、いくら送金されたというような内容がロッキード社等の正規の帳簿に記載されているものと推認することができる。なお、右の記述のうち、「一九六九年六月一一日」は、クラッターに送金した最初の外国送金受領証(〈書証番号略〉)の作成日付と一致し、「一九七五年三月四日」は、クラッターが日本において五〇〇〇万円を受領した日であるから(〈書証番号略〉・クラッターの「摘要」参照)、この点からも、ロッキード社の帳簿等には送金依頼をした日やクラッターが円貨を受領した日が確認できるような記載があるものと推測できる。

しかも、付属提出書類の記載によれば、右のとおり、一九六九年六月一一日から一九七五年三月四日の間の日本への送金額は一七億九四〇六万五〇〇〇円とされているが、クラッターの「摘要」記載の右期間のクラッターの受領額(クラッターの「摘要」の受領額の合計は三〇億八六八〇万円であるが、これから一九七五年三月四日より後の受領分である同年五月六日分八一三四万円及び同年七月二九日分一億六八一六万円、円貨外の受領額であるスイスフラン建小切手分一億円、ドル建小切手分五億円及びロス空港での小佐野受領分五三〇〇万円並びに盗難小切手に係る穴埋分四億四〇〇〇万円を控除し、クラッターではなくエリオットが受領した一九七四年六月一四日付け外国送金受領証分(〈書証番号略〉)二〇七二万円及び一九七四年六月一六日付け外国送金受領証分(〈書証番号略〉)三〇三四万五〇〇〇円を加算した一七億九五三六万五〇〇〇円。なお、〈書証番号略〉のニューマン報告書の付属提出書類には、日本においては円貨はエリオット又はクラッターに渡された、エリオットは受領した円貨について、二度の場合は自ら日本の航空会社の役員に対して金を渡したが、その余の場合にはその円貨をクラッターに渡した旨供述している、との記載があり、付属提出書類にいう「円貨の購入」には、エリオット宛の送金も含まれると解される。そして、〈書証番号略〉の外国送金受領証においてエリオット宛とされている送金分のうち、右26及び27の分は「摘要」にその額を受け入れた旨の記載がないので、右二回分は加算すべきである。エリオットは、ロッキード社の関連会社ロッキード・カリフォルニア・カンパニーの計画副部長である。)と比較すると、クラッターの受領額が一三〇万円多くなっているだけであり、両者はほぼ一致している。したがって、ニューマン報告書の記載は、クラッターの「摘要」と矛盾するものではない。

なお、この一三〇万円の相違については、被控訴人の挙示する証拠により、被控訴人が主張するように考えることも十分可能であり、そうであるとすればロッキード社の記録とクラッターの「摘要」の記載とは完全に符合していることになる。

さらに、被控訴人がロッキード社からの資金の流れについて調査・確定をせず、やみくもに本件各更正処分をしたとの主張については、これを認めるに足りる証拠はない。

(二) 香港ディーク社を経由したクラッター宛送金の明細について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

ロス・ディーク社から香港ディーク社への送金の態様の詳細が明らかではないからといって、その送金の事実が疑わしいということにはならない。しかも、〈書証番号略〉によれば、両者間の資金決済は被控訴人主張のような方法で行われていたことが窺われる。

また、香港ディーク社の日本円購入の具体的な態様・方法や、日本への搬入の詳細な態様が不明であるからといって、香港ディーク社からクラッターへの日本円の交付の事実が疑問であるとはいえない。そして、〈書証番号略〉により、香港ディーク社は保世新宮らの運び人を使って日本円をクラッターのもとに届けていたことが認められる(なお、クラッターは、〈書証番号略〉において、「摘要」の一九七四年(昭和四九年)一月一二日及び一月一九日の欄の日付の右側に「J」とあるのはホセという名前の運び人を意味し、同年一月一四日の欄の「A」とあるのも運び人を意味するものであると証言している。また、右保世新宮は、〈書証番号略〉において、検察官に対して、昭和四七年一一月頃から、昭和四九年春までの間に、九回位、合計二億円位をクラッターに届けたと供述している。〈書証番号略〉においては四回ないし一〇回位クラッターに届けたと証言し、〈書証番号略〉においては香港からの運び人は女四人位、男五ないし六人と供述している。)。

そして、クラッターの領収証の写しとして、乙第三五号証の三ないし一三、一五、一六、一八、二〇ないし二三が提出されているところ、〈書証番号略〉によれば、右各写しは、米国司法省が関係者から提出させて保管中の原本からゼロックスによって作成されたものであることが認められる。また、〈書証番号略〉によれば、右領収証の原本は、香港ディーク社の支配人ブリンクからロッキード・エアクラフト・インターナショナル・リミテッドに対して、クラッターに対する支払の証拠として送付されたものであることが認められる。クラッターも、〈書証番号略〉において、これらの領収証は、児玉に対する穴埋資金(合計四億四〇〇〇万円)の支払に充てられた金を受け取った際に自分が作成し署名してディーク社に渡したものであり(なお、〈書証番号略〉において、ロス・ディーク社の支配人のケリーは、ディーク社においては、通貨が受取人に渡されると、受取人は領収証に署名をすることが要件になっていたと証言している。)、これらの領収証の書式は、自分が「摘要」記載の期間にディーク社から現金を受領し、これに対して自分が作成した領収証の書式と同じである旨証言している。したがって、前記領収証は、クラッターが香港ディーク社の運び人に交付した領収証であるものと認められる。

右領収証は一部であるが、前記ケリーは、〈書証番号略〉において、資金が受け取れなかったなど、資金の送付について問題が生じたことはないと証言しており、領収証のない分についての送金がされていないと推認することはできない。提出されているのは、盗難小切手の穴埋資金に関するものであるから、ロッキード社としてはその送金に関する資料が特別に必要であったとも考えられるのであって、この点に関する被控訴人の主張のような事情により、右領収証だけが証拠として提出されるに至ったという推測も十分成り立ちうる。

ところで、〈書証番号略〉によれば、保世新宮は、クラッターから計算機によって金額が打ち出された紙に署名をしたものを領収証として受け取った旨証言していることが認められる。しかし、保世新宮は、クラッターは、受け取った金は一〇〇万円を単位として金額を数え、その金額を計算機で打つとも証言しているところ、この点は〈書証番号略〉の領収証に一〇ピーシーズ、三〇ピーシーズというように一〇〇万円単位で金額が記載されていることと符合するものである。前記ケリーも、〈書証番号略〉において、「ピーシーズ」と記載された領収証を見たことがあると証言している。したがって、保世新宮の領収証の形式に関する証言は、記憶違いか、クラッター以外の者に現金等を届けた際の記憶と混同している可能性もある(〈書証番号略〉によれば、保世新宮は、香港ディーク社のためにクラッター以外の者にも現金等を届けていたことが認められる。)。

(三) クラッターの「摘要」について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

① クラッターの「摘要」は、以下のとおり、その記載内容は正確なものであり、これを裏付ける資料も存在するものである。

まず、クラッターは、この「摘要」について、受け取った金員及び交付した金員についてその都度記入する個人的な一覧表として記載していたもので、常に書類鞄に入れて携帯し、管理していたものであり、右金員のすべてを漏れなく記入したものであって、「私は、能う限り、金員受領の実際の日付を記入しようとしました。一日かそこらは遅れているかも知れませんが、私の意図はそういうことでした。」と証言しており(〈書証番号略〉)、このような「摘要」の性質、記入の方法及び管理の在り方からして、その記載内容は正確であり、事実に合致するものであると考えられる。そして、クラッターは、その記載内容の趣旨について、逐一詳細に証言しており(〈書証番号略〉)、その中に架空のものあるいは事実に反するものが含まれていると疑うべき根拠はない。

また、別表記載のとおり、「摘要」の記載は外国送金受領証及び児玉領収証とよく符合しているものであって、この点からもその内容が正確であることは明らかである。

さらに、〈書証番号略〉によれば、「摘要」の原本について、(問)「これが破れないように少し気をつけなければ。」(答)「バラバラになる?」(問)「そう。」(答)「すぐそうなってしまいます。」(問)「分っています。」との問答がされており、「摘要」の原本は注意して取り扱わないと破れてしまうような状態であったことが認められ、昭和四四年以降記載がされたものであることを裏付けている(その形状は、〈書証番号略〉の「摘要」の写真によっても窺い知ることができる。)。

② 〈書証番号略〉によれば、ニューマン委員会報告書の付属提出書類のシャッテンバーグの一覧表についての記載内容は、被控訴人主張のとおりであるものと認められ、「記載内容の正確性は疑わしい」というのではなく、「その完全性も疑われている」というものである。そして、右付属提出書類に引用されているシャッテンバーグのクラッター宛手紙(〈書証番号略〉)には、「私は、ディーク及び代理人の領収証に基づいて、取引関係を再構成してみた。同封した算出表はその結果できたものだ。この算出表は完全なものではないが、細かく検討すれば、我々の従前の通信において網羅された情報と若干の相違があることがわかるだろう。」との記載があり、シャッテンバーグ自身がこの算出表が完全なものではないことを認めているのであるから、ニューマン委員会の指摘は格別問題とすべきことではない。また、ニューマン委員会は、右算出表の記載内容に疑義があると述べているものではないことは明らかである。

また、付属提出書類は、シャッテンバーグの手紙の、取得高を八〇〇万円だけ増額したが、これらの資金の出所はディーク以外のものに違いない、との記載について、「事実、これらの資金の出所は立証されていないし、一覧表中に記載されている事項はクラッターが報告している支出と円貨購入の帳尻を合わせんとするシャッテンバーグの事実上の穴埋工作のように思われる。」と述べている。「attempt to balance」を「帳尻合わせ」と翻訳し、「plug」を「穴埋工作」と翻訳することの当否はさておいても、右記載を直ちにシャッテンバーグとクラッターが何らかの不正な資金操作をしたという趣旨に解することはできない。なお、シャッテンバーグがこの手紙で述べている八〇〇万円の増額の趣旨については、後述するとおりであって、シャッテンバーグの作成した算出表が不完全なものであったために、クラッターに問い合わせをして、クラッターがこれについて正確な事実関係を回答して算出表を訂正させているものである。

なお、被控訴人の主張するとおり、ある時点において対照すれば、シャッテンバーグの算出表とクラッターの「摘要」の各金額は一致していないはずのものであるから、両者の間でその金額の突き合わせをしたからといって、不正な行為であるということはできない(〈書証番号略〉のクラッターの返書にも、「現時点で君と完全に調整をとるのは難しい。というのは、君は資金の取得額とこちらの領収書とを同額にすることを前提としているからだが、そんなことは勿論起こらないことだ。金の受渡しは、何回かに区分して若干時間をかけてやられ得るからだ。」との指摘があり、このことを明らかにしている。)。

次に、付属提出書類には、外国送金受領証についての記述はないが、そのことから、ニューマン委員会がこれを正規の送金資料として取り扱っていないとの結論を導くのは早計である。むしろ、付属提出書類には、クラッターはシャッテンバーグに対して一定金額の円貨を購入し、一定の日時までに東京にて入手できるようにせよとの指示を与え、シャッテンバーグはロス・ディーク社から円貨を購入したとの記載があるのであるから、この送金注文の事実を証明する外国送金受領証に何らかの問題があれば、ニューマン委員会は当然その旨の指摘をしたであろうと考えられる。

付属提出書類の領収証に関する記述については後に六一〇頁以下において述べる。

③ア 一九六九年一月六日の資金受入欄の二〇〇〇万円受入の記載

〈書証番号略〉から、控訴人ら主張のように、右二〇〇〇万円の受入が架空のものであると推認することは到底できない。この点については、被控訴人主張のとおり推測するのが合理的である。〈書証番号略〉(クラッターの返書)には、シャッテンバーグの、算出表の第六行目を増額し、第九行目を調整したとの手紙(〈書証番号略〉)に対する回答として、「第六行目と第九行目の合計二〇〇〇万円の取得は、実際には一九六九年一月六日に受領した一回の取引である。私の記録には資金の供給者を示唆するものはない。」との記述があり、一九六九年一月六日に現実に取引(資金の受入)があったとしてシャッテンバーグの誤りを指摘した上で、しかし「摘要」にはこの取引における資金の供給者に関する記載はないことを明らかにしているのであるから、この取引が架空のものであるとは到底考えられない。そして、クラッターの返書は一九七二年一〇月二四日付けであって、右取引から約四年を経過しているから、クラッターがその供給者を記憶していなかったとしても不自然ではない。

シャッテンバーグの手紙には「ボブ・ミッチェルから強く言われない限り、私は、私と君がこれらの相違を調整することができるまで彼の要求に答えをしないつもりだ。」との記載があるが、右手紙とこれに対するクラッターの返書を対比すると、右記載が、両者の間で何らかの不正な資金の操作ないし辻褄合わせを行ったことを意味するものであるとは到底解されない。すなわち、シャッテンバーグの手紙は、前払の額についてボブ・ミッチェルから要求があったので取引関係を再構成したが、その結果が算出表であるとし、これが完全なものではないとして幾つかの点について問い合わせをしているものであり、クラッターの返書は、右問い合わせに答えた上で、「上記により、記録をはっきりさせ、君の数字を調整できることを望む。」と回答しており、クラッターがシャッテンバーグの記録の不完全ないし不正確な点を指摘し、正確な事実を教示していることが明らかであって、シャッテンバーグは、クラッターの教示を受けて、自分の作成した算出表を、クラッター側の記録と齟齬がないように完全かつ正確なものにした上で、ボブ・ミッチェルに要求されている前払の額についての回答をすることとしたいという意向を表明しているにすぎないものと解される。

なお、クラッターは、この手紙のやりとりについて、シャッテンバーグがタイプではなく手書きで手紙を書くという方法をとったので、クラッターは、シャッテンバーグが秘密にしたいのだと考え、自分も同じ方法で返事を出すことにしたと証言しているが、同時に、クラッターとシャッテンバーグの間で、これらの報告事項ないし照合事項についてできる限り秘密にしておくべきだということが明示的に話し合われたことはないと証言しており(〈書証番号略〉)、両者の調整を秘密裡に行うという合意はなかったものである。

イ 一九七二年九月二一日の資金受入欄の三〇〇〇万円受領の記載ほか二件の記載

一九七二年九月二一日の三〇〇〇万円受領の記載については、クラッターの証言により、一九七二年九月頃、クラッターが三〇〇〇万円をディーク社の運び人から受領しているのに、ロッキード社の記録には残されていないことがあり、調査をしたがその理由が判明しなかった事実があることが認められ(〈書証番号略〉)、この三〇〇〇万円が一九七二年九月二一日にクラッターが受領したとされているものであると推認される。

一九七三年一二月四日の三〇〇〇万円受領については、クラッターの証言(〈書証番号略〉)により、クラッターが、ディーク社経由ではなく、A・H・エリオットから受領したものであり、「摘要」の「AHE」との記載はそのことを意味するものであることが認められる。そして、〈書証番号略〉によれば、A・H・エリオットは、一九七三年(昭和四八年)一一月二〇日から一二月七日まで日本に滞在していることが認められる。また、〈書証番号略〉によれば、シャッテンバーグのクラッター宛一九七三年一一月二六日付け書簡に、同年一一月一九日頃ロッキード社がクラッターに三〇〇〇万円を交付したので、その領収証を送付するようにとの記載があることが認められ、右事実を裏付けている。

一九七五年五月六日の八一三四万円受領については、クラッターの証言により、同人がノーマンと称するディーク社の運び人から同日受領したことが認められる(〈書証番号略〉)。そして、〈書証番号略〉によれば、ロス・ディーク社のケリーが米国証券取引委員会に提出した外国送金受領証の一覧表には、一九七五年四月二四日付けの八一三四万円の日本への送金分の記載があることが認められ、外国送金受領証は存在したものと推認される。

ウ 外国送金受領証の送金額と「摘要」の受入額との一億七五〇〇万円の食い違い

〈書証番号略〉によれば、クラッターは、「あなたは、その頃(一九七三年一一月頃)、約一億七五〇〇万円があなたに送られる手はずになっていたところ、その後返還されたと聞いたことがありますか。」との質問に対して、「はっきりそう覚えている訳ではありません。漠然と覚えているところでは、いつだったか私は、私がロスアンゼルスに対し、『彼らが、支払のため、必要だと私が承知している額よりも多くの円を購入している』ということを言い、それで彼らは購入したのを取り消したと聞いたことがあります。しかし、それがお尋ねの授受に関係するのかどうかは知りません。」と答えていることが認められ、明確な記憶ではないが、一億七五〇〇万円の送金注文が取り消されたことがあることが認められる。

そして、この事実は、〈書証番号略〉の算出表によって裏付けられる。すなわち、右各証拠によれば、一九七二年一〇月一七日付けの三億五〇〇〇万円の送金注文のうち、一億七五〇〇万円の送金注文が取り消され、ロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレイテッドは同年一一月一五日付けのロス・ディーク社振出の小切手(額面五八万〇四三二ドル、小切手番号一〇四〇五)によりその資金の返還を受けたことが認められる。

エ 福田からの購入及びエリオットからの受領

〈書証番号略〉によれば、一九七一年一月一四日の一五〇〇万円は、クラッターが福田から日本円を購入し、ロッキード社は福田に対しその代価を小切手で支払ったものであり、「摘要」の同日の欄に「TF」と記載されているのは福田の頭文字を表すものであることが認められる。そして、これを裏付けるものとして、ロッキード社が福田に交付した一九七一年一月一二日付けで額面四万一七〇〇ドルの小切手〈書証番号略〉が存在する。福田の検察官に対する供述調書にこの点についての供述がないからといって、この金員の授受がなかったとはいえない。

〈書証番号略〉によれば、一九七一年一月三一日の一億二五〇〇万円も、クラッターが東京にいなかったので、エリオットが受領し、後日クラッターに渡したものであり、「摘要」の同日の欄の(AE)という記載は、エリオットの頭文字で、Hを省略したものであることが認められる。そして、一九七一年一月一九日付けで、金額は一億二五〇〇万円、送金先は、A・H・エリオットとされ、「ホテルでエリオット氏のみに連絡すること」という指示のある外国送金受領証(〈書証番号略〉)が存在する。〈書証番号略〉によれば、エリオットは昭和四六年一月二九日から二月三日まで日本に滞在していたことが認められる。

一九七三年一二月四日の三〇〇〇万円については既に認定したとおりである。

オ 保世の供述調書との食い違い

〈書証番号略〉によれば、保世は、クラッターの所へ現金を届けたことではっきり記憶しているのは一〇回ほどあるとして、その時期(昭和四七年秋から昭和四九年春の終わり頃まで)と金額を供述しているが、「これは全く記憶だけにたよって述べているのでありまして時期や金額にいくらか誤差があるかもしれません」と供述しているから、時期等の細部は必ずしも正確ではないと考えられる。もっとも、昭和四七年一一月頃の一七四〇万円については、「一度こういった数字の金を届け、クラッターが不器用な手つきで端数の四〇万円を数えていたのを憶えています。」と供述し、昭和四九年四月頃の一三〇〇万円については、「私の誕生日は四月一三日ですからそのへんからもこの時期に一三〇〇万円届けたことは間違いなかろうと思います。」と供述しており、記憶についての一応の根拠を述べている。しかし、この供述も「摘要」の記載の正確性を左右するに足るものではない。

また、同人の証人尋問調書(〈書証番号略〉)によれば、同人は、刑事事件の公判廷においては、クラッターに金を届けたのは、一九七二、三年から二年間以上で、最低四回から最高一〇回であると証言しており、詳細かつ正確な記憶はないものと認められる。

したがって、同人の供述等と「摘要」とが食い違っていると断定することはできない。

カ 盗難ドル小切手の穴埋資金に関する記載

〈書証番号略〉によれば、アンドリューからダーク・ブリンク宛の手紙には、「私は、当事者からもし可能ならば、彼としては換算率についての何か証拠を持ちたい旨の要請を受けております。これをお送り頂けますか。私達は一九七三年六月一四日付けの貴翰を参照しています。」との記載があることが認められ、換算率そのものではなく、換算率についての「証拠」(資料)を入手したいという趣旨であることは明らかである。

また、〈書証番号略〉によれば、クラッターは、「摘要」別紙の穴埋資金についてのメモ(〈書証番号略〉)に関し、(問)「それではクラッターさん、同じページについてなんですが、領収証のとめられているページの上の部分……」(答)「はい。」(問)「……そこには、最終的には合計四億四千万円になる円の金額の加算とおぼしき数字が載っております。そこに表示された数字の説明はそれで合っていますか。」(答)「はい。」という問答を交わした後に、右メモの右側上部の三行の記載について説明し、次いで、「それでは、あなたは、この加算を金員の授受を記載するのと同時に走り書きしたのですか。それともその後のものなのですか。」との質問に対し、「はあ、確か、金の授受と同時にした走り書きです。」と答えている。さらに、次には、「その下にはディーク社の領収証のコピーがあります。」という質問が続いているから、「この加算」というのは、領収証の上部の記載を指すことは明らかであり、五月一八日から六月一一日に至る受領額を順次累計している部分(七七から四四〇までの記載)を意味するものと解される。

以上のとおり、控訴人らの主張は、いずれもその前提が誤りである。

五月二三日に香港で購入された資金の送金が五月一八日から開始されている点も、ロッキード社とディーク社との間に十分な信頼関係があるとすれば、ありえないことではないと考えられる。外国送金受領証が五月三一日付けとなっていることについては、被控訴人主張のような事情によるものである可能性もあり不合理ではないことは既に述べたとおりである。

④ クラッターが、「摘要」を証券取引委員会あるいはチャーチ委員会に提出しなかったのは、その記載内容が虚偽であることが露顕することを恐れたからであるとする控訴人らの主張は、根拠がない憶測であるといわざるをえない。〈書証番号略〉によれば、チャーチ委員会は、エージェントの報酬及び海外における政治献金に関する書類をロッキード社から提供を受け、また、アーサー・ヤング社から召喚状により右書類の提供を受けていることが認められ、その上さらにクラッターに対して個人的な文書の提供を求めたことを認めるに足りる証拠はない。証券取引委員会がクラッターに対し、右文書の提供を求めたという証拠もない。そして、〈書証番号略〉によれば、コーチャンは、チャーチ委員会及び証券取引委員会において、ロッキード社の日本を含む外国におけるコンサルタント等に対する報酬の支払の事実を認めていることが明らかであるから、クラッターに対してその個人的文書までも提出を要求したものとは考えられない。

なお、〈書証番号略〉によれば、クラッターは、嘱託尋問に際して、「日本におけるロッキード社の製品の販売の促進のために日本の政府高官、国会議員、コンサルタント又はその他の者に対して金が支払われた或いは人をして支払わせるために金が支出された際の取引業務のいかなる部分又はその周辺状況のいかなる部分でも、書かれていたり、図示されていたり、特徴づけられていたり、示されていたりするもので、彼らのそれぞれの所有、管理または保管に係るすべての本件に関係する領収証、メモ、手紙、元帳、仕訳帳、計算書の写しその他の資料又はその写し」を持参するよう命ぜられたことが認められ、〈書証番号略〉によれば、クラッターは、右命令に応じて「摘要」等を提出したものであることが認められる。

〈書証番号略〉によれば、クラッターはニューマン委員会による面接を拒否したことが認められるが、その理由は「摘要」の内容が虚偽であることが露顕することを恐れたからであるとする控訴人らの主張は合理的根拠のない推論であって、首肯することができない。

控訴人らは、クラッターは「摘要」の原本をロッキード社に提出した旨の虚偽の証言をしていると主張するが、〈書証番号略〉においてクラッターが「私はそれを会社に渡しました。」と証言しているのは(訳文の欄外に六一頁と記載されている部分)、その直前で述べている「日本において支払うべき手数料の支払計画の変更に関するノートのコピー数枚、私が丸紅の大久保さんから受け取った情報に関するノート、例の『ピーナツ』『ユニッツ』に関する領収証のコピー」の原本であって、さらにその前で言及している「摘要」の原本を指すものではないと解される。

4  児玉が受領した金員の処分先について

(一) 控訴人らの主張〈省略〉

(二) 被控訴人の反論〈省略〉

(三) 当裁判所の判断

収入金額の使途が明らかにされなくとも、収入があった事実を認定することができることはいうまでもないことである。

また、控訴人らの提出している資産増減調査書(〈書証番号略〉)は、控訴人らの自認する受領額を前提としても児玉の資産増加額と生活費等の支出を説明することができることを示すものであるが、児玉の資産増加額がこのとおりであるかどうかは明らかではないのであるから(控訴人らとしては、これ以外に資産の増加はないという立証は不可能であるが、被控訴人としても、児玉の収入金額の使途ないし資産の増加額を立証するのは、その性質上極めて困難であることは明らかである。したがって、被控訴人が右の点を立証しないからといって、控訴人ら主張の資産増加額が真実であると認めることはできない。)、控訴人らの主張を裏付けるものではない。

5  児玉の自認額を超える金額の支払原因について

(一) 「手数料」の支払原因について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

① 〈書証番号略〉によれば、昭和四七年一〇月五日頃、ダグラス社のDC一〇型機を全日空に、ロッキード社のL―一〇一一機を日航にそれぞれ購入させる旨の政府の決定がされた事実はないことが認められる。

② しかし、〈書証番号略〉によれば、小佐野は、検察官に対して、昭和四七年一〇月初旬の(一〇月五日又は一〇月五日頃とも供述している。)小佐野がハワイに行った日にコーチャンが訪ねて来て、日本政府ではボーイング社のエアバスは日航に、ダグラス社のエアバスは全日空に供給する方針であるとのことであるが、それでは困る、どうしてそのような方針になったのか、と憤慨しており、小佐野は、「その話を聞いてそれは作られた話というか誰かの陰謀だと思いました。」、その話が政界人によって作られたのか、その取引によって利益を受ける者によって作られたのかは知らない、と供述していることが認められる。そして、〈書証番号略〉によれば、小佐野は昭和四七年一〇月五日に出国し、同月一四日に帰国していることが認められる。一方、コーチャンも、「陰謀の件」について小佐野と会ったのは「小佐野氏は丁度ハワイに向けて出るところか、或いは、東京を発とうとするところでした」と証言しており(〈書証番号略〉)、小佐野の供述と符合する。

なお、小佐野は、刑事事件の被告人質問においては、昭和四七年一〇月五日朝コーチャンに会った事実はない、検察官に対して右事実を認めたのは、検察官から執拗に質問されて困惑し、弁護士に相談したところ、病気を直すのが先決だから検察官のいうとおり認めるようにと助言されたためである、と供述している(〈書証番号略〉)。そして、〈書証番号略〉(小佐野の主治医である山口三郎医師の証言調書)によれば、小佐野は、検察官から取り調べを受けた当時、高血圧症である上にしばしば狭心症の発作を起こしていたことが認められるが、これによっても、小佐野が検察官の取り調べに耐えられないような病状であったとまでは認め難い。弁護士の助言によって事実に反する供述をすることにしたというのも到底信用できないことであって、〈書証番号略〉は採用することができない。

③ また、大久保利春も、刑事事件において、昭和四七年のトライスターの売り込みの最終段階の一か月位前に、事務所へ通常の時間である午前八時五分頃に入ったところ、秘書の机の前をコーチャンがうろうろしており、大久保の部屋に招じいれたところ、コーチャンは、やや興奮した口調で、日航に対してはL―一〇一一、全日空に対してはDC一〇ということが決定された、ないし決定されるというような説明があり、この事実があったかどうか調べてほしいといわれた、そこで、大久保は常務の伊藤宏に調査を依頼したところ、伊藤からその日のうちに「そういう事実はあったらしいが、その話はなくなった」という報告を受けたので、その旨コーチャンに伝えた、と供述している(〈書証番号略〉)。コーチャンも、一〇月六日の朝七時半に、大久保が着く前に丸紅のオフィスに行っており、大久保に、ロッキードが日航の注文を受けることになる可能性があるという不安な情報を受けたこと等を言い、これが事実なのか確かめるようにと頼んだ、と証言しており(〈書証番号略〉)、大久保の供述と一致している。

④ クラッターは、コーチャンと児玉らとの会合は、クラッターが東京にいない時に催されたものであり、一〇月九日に東京を発って香港に向かい、香港からタイペイへと回って同月一二日に東京に帰って来たから、右の会合は一〇月五日から一週間位後のことであったかも知れないと証言しており(〈書証番号略〉)、〈書証番号略〉によれば、クラッターの右出入国の日は外国人出入国記録と合致していることが認められる。

これに対し、コーチャンは、昭和四七年一〇月五日の午前中に小佐野に会ったが、「私の記憶する限りでは、彼(クラッター)は日本から出ておりました、それは、台湾であったと思います。」と証言しており(〈書証番号略〉)、クラッターの証言とは食い違いがある。

しかし、両証言は、この会合の際にはクラッターが東京にいなかったという点においては一致しており、不在の理由が台湾出張ではなかったとしても、直ちにコーチャンの証言が虚偽であるということはできない。

なお、クラッターも、コーチャンから聞いた話として、コーチャンは、昭和五七年一〇月五日に、日本航空がL―一〇一一を注文し、全日空がDC一〇を注文する模様であるという趣旨の電話を受けて非常な衝撃を受け、全日空をL―一〇一一の第一の買入先として取り戻すことができないかどうかを見極めるために小佐野、児玉らとの会見をした、そして、翌日、コーチャンは、全日空はL―一〇一一を購入しそうだということを聞いた、と証言している(〈書証番号略〉)。そして、コーチャンは、クラッターが東京に戻ってきた後に、この全体の情勢を説明し、報告書(証拠物一〇―A号)の作成を依頼したと証言しており(〈書証番号略〉)、乙第三九号証の一一が右証拠物一〇―A号であると認められるが(一枚目の右下に「副執行官証拠物一〇―A」と記載されている。)、乙第三九号証の一一には、「日本政府は、その二大航空会社(日本航空と全日本空輸)が、大型航空機を、ロッキード、ボーイング及びダグラスから購入すべき旨決定した。日本政府は、ロッキードに、その数においてもっとも多い航空機を購入するものとして、もっとも高名な航空会社(日本航空)が与えられるべきである旨強く望んでいる。」旨の記載があり、さらに、この決定をもたらす結果等について記載されている。

⑤ コーチャンは、チャーチ委員会においては、「陰謀」の件については明確には証言していないが(〈書証番号略〉)、児玉に多額の報酬を支払った理由を述べる際に、「ある時には、政府のさまざまなレベルで誤解を生じて、我々の仕事にとって破局的な状態となったことがありましたが、私は、彼等(児玉及び小佐野)に、この誤解を正すため、皆に話をしてくれるよう依頼したりしました。そういうようなことが、沢山ありました。」と証言しており(〈書証番号略〉)、「陰謀」の件について言及しているものであるとも解される。コーチャンが具体的な証言をしなかったからといって、嘱託尋問におけるその証言が信用できないということはできない。

また、全日空の社長であった若狭得治は、トライスターを全日空が購入するのでなければ意味がないとコーチャンが考えたというのは全くデタラメであって、日本航空に一〇一一機を売ることができれば、喜びこそすれ慌てることはありえない、と証言している(〈書証番号略〉)。しかし、この点について、コーチャンは、「これは私に関する限りとんでもない災難でした。と言うのは、全日空の中距離航空機は、直ぐ購入されます。そして、私が提供されたのは、誰か他の人が、手に入ったその鳥を貰うのに、私は藪の中の鳥二羽を手に入れようとして居ることになるからです。そこで、私は、『それではたまらない。』と言いました。」と証言しており(〈書証番号略〉)、また〈書証番号略〉には、「B 即座に緊急に現在の国内の運航能力を拡大する必要性がないため、日航は、ロッキードL―一〇一一を注文する即時の決定を延期しようとするであろう。C 日航は、ロールスロイスのエンジンの航空機を好まないため、同社は、L―一〇一一の注文を遅らせている間に、全日空と統一するためには、それに代えて、ダグラスDC―一〇を購入すべきでないかという論理的な理由を作り出すことがありうる。D 日航は、追加分のボーイング七四七を注文する。」「若し、以上のことが発展すると、政府が最も高名な航空会社(日航)からの注文を与えられることを望んだロッキードは全日空がL―一〇一一がその使用には最高の航空機であると確信している事実に拘わらず、何の注文を受けられなくなる。」との記載がある。したがって、「陰謀」の件がロッキード社(コーチャン)にとって極めて深刻な問題であったことは明らかであって、右若狭得治の証言は当をえないものである。

⑥ 以上のとおり、政府の決定に関する情報が存在し、コーチャンが児玉の協力を得てその是正に努力したことは事実であるものと認められ、この点に関するコーチャンの証言が虚偽であるということはできない。

⑦ 児玉は、ロッキード社はトライスターを日航、全日空及び東亜国内航空に売り込もうと努力していたと供述し、トライスターの騒音やダグラス機の事故に関するコーチャン等に対する助言については、全日空に対する売り込みに限定してのものであったとは供述していない(〈書証番号略〉)。

しかし、仮に右供述のとおりであったとしても、この助言が全日空に対する売り込みに関する貢献ではないとはいえないし、また、これらの助言に対する報酬として年間五〇〇〇万円の顧問料以外の報酬が支払われることがありえないともいえない。

また、クラッターや福田が右売り込みに関する児玉の貢献について何ら供述していないからといって、児玉の貢献の事実がなかったということはできない。

さらに、仮に児玉が全日空によるトライスターの購入機数、購入時期等を知らなかったとしても、ロッキード社が児玉にその引渡時などに手数料を支払うことがありえないというものではない。

(二) 手数料の支払に関する契約

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

コーチャンは、一九七二年(昭和四七年)八月から一一月初めまでの間に児玉と何回か会い、この間にクラッターがL―一〇一一型機を航空会社と契約した場合の支払の程度について取り決めた、その取決めの最中に、コーチャンが小佐野を必要とすると決意した時、児玉がもう少し金を出さなければならないと言ったので、コーチャンはこれに同意した(〈書証番号略〉)、ロッキード社がL―一〇一一型機をデモンストレーション飛行のため日本に持っ行った一九七二年七月に、コーチャンが日本において現時点で誰が非常に影響力があるのか見つけ出そうとしている時、いつも出てきた名前は小佐野であって、田中角栄総理大臣の非常に近い仲間として日本の当時のあらゆる雑誌に載っていた、そこで、コーチャンは、同年七月二九日に小佐野と会い、L―一〇一一型機の販売についての協力を依頼した、同年八月二二日、コーチャンは児玉と会ったが、その際、児玉は、小佐野の協力を得るためには報酬を更に五億円増額することが必要であると要求し、コーチャンはこれに同意した(〈書証番号略〉)と証言している。

また、クラッターも、ロッキード社と児玉との間で、L―一〇一一型機の最初の注文の署名があった時に児玉に対する五億二〇〇〇万円の支払義務が発生する旨の合意があった、その後一九七二年(昭和四七年)の秋になって、児玉から小佐野の協力を得るために必要であるとして五億円の報酬の増額の要求があり、コーチャンはこれを承諾した、承認は口頭の契約の形でされた、昭和四八年に契約書が作成される前に一二億二〇〇〇万円が支払われた、と証言している(〈書証番号略〉)。なお、クラッターは、修正一号契約書に関連して、「私の記憶では、その項のA号のその数字については、児玉氏と、多分、話し合いをしましたが、その数字が決まったのは、おそらく契約書を、彼に検討し署名してもらうために渡した時期だったと思います。」と証言しているが(〈書証番号略〉)、この証言の趣旨は、修正一号契約書に記載する数字が決まった時期について述べているようでもあり、児玉との間で当初契約ないし追加契約の内容についての合意が成立した時期について述べたものであるかどうかは明らかではない。

以上の証言により、五億二〇〇〇万円の支払に関する当初契約及び五億円の追加支払に関する追加契約が昭和四七年中に締結されたことは明らかであり、その成立の時期、契約内容の詳細等が十分明らかではないとしても、右認定を左右するものではない。また、福田がこれらの契約について言及していないからといって、右契約が締結されなかったとはいえない。なお福田は、コンサルタント契約書に双方が署名などをする前に、クラッターと児玉との間で一度か二度位話し合いがあったことは前に述べたとおりであるが、修正合意書に双方が署名などをする前には、特にその修正合意をするための具体的な話し合いというようなものはなかったように記憶している、修正合意書ができる前に、その都度クラッターと児玉が事前にトライスターの売り込みに応じた手数料をいくらにするかというような具体的な話し合いはなく、クラッターが持って行った英文の修正合意書を、その場で自分が児玉に通訳し、その内容を児玉が了解して成立したと記憶している、と供述しているが(〈書証番号略〉)、この供述の趣旨は、契約書の作成・調印の際には改めて話し合いはされなかったというにすぎないものと解され、トライスターの売り込みに関する手数料等について、いかなる時点でも全く協議がされなかったということまで述べている趣旨であるとは解されない。なお、控訴人らの指摘する〈書証番号略〉は、スイスフラン小切手及びドル小切手で支払われた合計六億円について、どのようなことからクラッターと児玉の間で話に出たのか知らないという内容のものであって、五億円の報酬の増額に関するものではない。さらに、児玉は、小佐野に五億円を支払うようにロッキード社に要求したことなどを否定し(〈書証番号略〉)、小佐野も、児玉からロッキード社のために協力を依頼されたことはなく、児玉との間でロッキード社のことが話題に出たことはないと証言している(〈書証番号略〉)が、いずれも信用することができない。

控訴人らは、当初契約の内容について、全日空が「一機又は二機」だけの発注をした場合の手数料がどうなるのか明らかではないと主張するが、コーチャンは、「合意した所では、最小限三機でなければならないということでした。契約書もそうなっていると思います。」と証言しており(〈書証番号略〉)、修正一号契約書(〈書証番号略〉)にも「三機ないし六機L―一〇一一型航空機についての最初の確定注文をロッキードが受けた際」とあるのであるから、当初契約の内容は右コーチャンの証言のとおりであったものと認められる。

上乗せ分二億円については、クラッターは、児玉に対して修正一号契約書作成前に一二億二〇〇〇万円が最初の確定注文に対する手数料として支払われたと証言しており(〈書証番号略〉)、後日作成された修正一号契約書(〈書証番号略〉)においてこの二億円を含む一二億二〇〇〇万円が「三ないし六機のL―一〇一一型航空機についての最初の確定注文をロッキード社が受けた際」に支払うべき報酬として明記されているほか、現に右一二億二〇〇〇万円のロッキード社による児玉への支払の事実が認められるのであるから(「摘要」によれば、昭和四四年六月一九日から昭和四七年一二月一九日までの間に合計一四億二〇三〇万円が支払われているが、これは、右一二億二〇〇〇万円、後に〈書証番号略〉の基本契約書において明記された昭和四四年から昭和四七年までの毎年五〇〇〇万円のコンサルタント顧問料の計二億円及び後述の何らかのデータに対する支払であると推測される三〇万円を合算したものである。)、これが追加して支払われるようになった経緯が明らかではないとしても、ロッキード社の資金操作の辻褄合わせであるとはいえない。なお、コーチャンは、修正一号契約書記載の報酬の額が決定された際の状況についての証言の一環として、「我々が署名した際、彼(児玉)は、この間の活動に対して福田氏も報酬を受けるべきだと頼みました。そして、私は、その取り決めの当事者でした。私は、クラッター氏に話をし、彼と私は、福田氏が自分自身の仕事のほかに一九六九年から七二年までこの件について働いて来ているので、我々は彼に一〇万をやるべきだ、我々はそれに対する報酬として一〇万を児玉氏に渡すべきだと意見が一致しましたが、児玉氏は、これに反対しました。そして、結局、我々は一五万の数字で決めました。ですから、これらの数字がそれらの支払に全て含まれて居ります。」と証言しており(〈書証番号略〉。〈書証番号略〉においても、福田に対する一五万ドルの支払が、児玉に支払うべき報酬についての増加分として、全日空との最初の契約をする時と比較的同じ頃に同意された、と証言している。)、二億円の上乗せ分の中には福田への報酬分一五万ドルが含まれているものと認められる。

(三) 修正一号契約書について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

① 〈書証番号略〉によれば、ロス・ディーク社がロッキード社から送金の注文を受けてから換算率が決定されるまでの手順について被控訴人主張のとおりの事実が認められる。そうすると、外国送金受領証(〈書証番号略〉)に引渡期限の記載がなくとも、特段の支障はないことになる。

そして、右外国送金受領証には、送金先としてクラッターと記載され、その日付及び金額はクラッターの「摘要」と合致するのであるから(別表参照)、これに沿うクラッターへの送金がされたものと認められる。

控訴人らが、右外国送金受領証記載の金額の合計一二億二〇〇〇万円と修正一号契約書記載の「確定受注時の手数料」額とが同一であることを根拠として、右一二億二〇〇〇万円は児玉に支払ったことを仮装して支出していたものであると推測しているのは、合理性を欠くものである。

②ア 福田は、検察官に対して、昭和四四年の初め頃、児玉事務所で、ロッキード社のクラッターと児玉によってコンサルタント契約書にサインがされた、その後、報酬の額等を中心としてコンサルタント契約修正に関する合意書が四、五回作成されたが、児玉事務所でクラッターと児玉が会い、福田が合意書の英文を逐一日本語に訳して児玉に伝え、児玉も納得した上で双方がサインをした、示されたマーケッティングコンサルタント契約書及びマーケッティングコンサルタント契約修正一号契約書等の写しは、右の契約書及び合意書の写しに間違いない、と供述している(〈書証番号略〉)。

また、コーチャン及びクラッターは、いずれも修正一号契約書等の写しを示された上で、その締結に至る経過について詳細に証言している(〈書証番号略〉)。

したがって、クラッター及び児玉の署名した修正一号契約書の原本が存在することは明らかである。

〈書証番号略〉(堀田力検事の昭和五一年一〇月六日付け「米側資料の原本対照に関する報告書」)によれば、児玉契約書については、原本がロッキード社の監査のためスイスのロッキード・エアクラフト・インターナショナルAGに送付されていたため、その写しと原本との堀田検事による同一性の確認はできなかったが、右写しは、上院多国籍企業小委員会及び証券取引委員会に提出されたものであることが認められる(右報告書において、児玉契約書等の原本に関する記述の部分の標題は、「ピーナツ領収書等、原本の現在の所在が判明しなかったもの」となっているが、その記述の内容は、原本の所在が判明しないというのではなく、右認定のとおり、監査のため送付されているというものである。)。そして、〈書証番号略〉には、米国証券取引委員会の認証印が押捺されている。したがって、〈書証番号略〉等は、原本のゼロックスコピーであり、原本の正確な写しであると推認することができる。

イ 修正一号契約書に「児玉」の丸印及び「児玉譽士夫」の記名印が押捺されているからといって格別不自然であるということはできない(なお、福田は、〈書証番号略〉において、クラッターが「児玉さんのゴム印も押して下さい」と言ったので、児玉はゴム印と丸印を持ってきて、サインのほかにこれらを押捺したと供述している。)。縦書きの記名印が横に寝かせて押捺されている点も、横書きの英文の契約書に押捺するのであるから、不自然であるとはいえない。

また、被控訴人主張のように、〈書証番号略〉の被指名経営者契約書は、丸印及び記名印を押捺した後にY.KODAMAと記載したようにも見受けられ、児玉は右契約書にサインをしたことは認めているものの、丸印や記名印は押捺しなかったと供述しているが(〈書証番号略〉)、丸印や記名印は児玉の了解の上で押捺されたものであると推認することも可能である。そうすると、修正一号契約書等についても、児玉によってゴム印及び丸印が押捺されたものと推測することができる。

ウ 〈書証番号略〉によれば、シグ・片山(米国国籍を有しており、IDコーポレーションの社長である。)は、取引を通じて知り合ったエリオットの依頼で、一九七四年(昭和四九年)に、架空の領収書数枚及びマーケッティングコンサルタント契約書三通に署名した旨証言していることが認められる。また、コーチャンも、IDコーポレーションは、ロッキード社のために日本で行われた特定の活動を隠蔽するための偽造の領収証を提供したと証言している(〈書証番号略〉)。

しかし、右の架空の契約書が作成された事情と本件修正一号契約書の作成との間に何らかの関連性があるという証拠はないのであるから(コーチャンは、〈書証番号略〉において、IDコーポレーションは、丸紅の役員を通じて日本政府の高官達にされた支払をカバーする領収証を出してくれた、と証言している。)右一事によって直ちに本件における修正一号契約書も架空のものであると推認することはできない。

③ 福田は、〈書証番号略〉においては、基本契約書にサインをした「年月日の正確なことは記憶しておりませんが、確か昭和四四年の初めころであったという記憶であり、契約書に記載されている日に、両者サインして契約が成立したという記憶です。」、「契約書及び各修正合意書は、この文書に書かれている日にそれぞれサインされ成立したものと記憶しております。」と供述し、また、〈書証番号略〉においては、「児玉さんとロッキードとのコンサルタント契約及びその修正合意書に児玉さんとクラッター氏が相互にサインなどをした月日については、大体その文書に記載されている日時前後ころではなかったかという程度の記憶でありますが、」と供述しており、必ずしも明確な記憶ではないことが明らかである。また、〈書証番号略〉によれば、福田は、取り調べに当たった検察官に対し、修正一号契約書はロッキード社が児玉に顧問料以外に右契約書記載の一二億二〇〇〇万円を支払った時点で作成したと供述していたが、それが何年何月頃か、もうしばらく思い出す期間をもらいたいと言うので、供述調書は作成しないでいたところ、福田が死亡したために右供述を調書にすることはできなかったことが認められるのであって、このような理由で供述調書の作成をしばらく待つことは、決して不合理ではない。

そして、コーチャン(〈書証番号略〉)及びクラッター(〈書証番号略〉)は、一九七三年(昭和四八年)二月頃、ロッキード社の監査委員会において児玉に対して契約書を作成することなく報酬の支払をしていることが問題とされ、コーチャンはこれが児玉の意向である旨を説明したが、同委員会はコーチャンに対し契約書の作成に努めるように指示し、コーチャンはこれを応諾してその作成をクラッターに依頼し、クラッターは児玉を説得し、基本契約書及び修正一号契約書が作成された旨証言しており、この証言の信用性を疑うべき根拠はない。

また、〈書証番号略〉によって、被控訴人の主張する児玉の住所の住居表示の変更時期及び固定為替相場制から変動為替相場制への移行の時期が認められ、これらの事実からも、修正一号契約書が昭和四四年ではなく日付を遡らせて作成されたことは明らかである。

児玉は、ロッキード社の航空機の売り込みに関して二通の契約書(その内容が、一通は年間五〇〇〇万円の顧問料を二回に分けて支払うというものであり、一通はトライスターを日本の航空会社に売ったときに支払う手数料等に関するものであったことを認めている。)にサインしたことは間違いないが、それは自分の生まれた明治四四年と数字が同じ昭和四四年であると供述している(〈書証番号略〉)が、「あるいは私の記憶違いかもしれませんが」とも供述しており、採用することができない。

(四) 特別謝礼金について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

① 昭和四五年八月八日の三〇万円について

「摘要」(〈書証番号略〉)の昭和四五年八月八日の欄には一三〇万円が交付されたことが記載されており、備考欄に「Tデータ」と記載されている。

クラッターは、右記載の意味は思い出せないと証言しており(〈書証番号略〉)、その趣旨は明らかではないとしても、「摘要」に記載されているのであるから、その支払があった事実は認められる。また、「データ」と記載されているのであるから、何らかのデータに対する支払であると推測することも可能である。

そして、この支払が不自然であるとか、不合理であるとかいうことはできない。

なお、一三〇万円のうち一〇〇万円は、基本契約書(〈書証番号略〉)及び修正一号契約書(〈書証番号略〉)に定められた報酬額によって計算した合計金額一四億二〇〇〇万円の中に含まれているものである。

② 昭和四八年六月一四日の七〇〇万円について

「摘要」の同日付けの備考欄には「年半ば T―5/H―2」と記載されている(〈書証番号略〉)。

そして、クラッターは、「摘要」の「年末」あるいは「年の中頃」という注記は、「基本的には、年末と年の中頃にボーナスとして支払をするという日本の慣行に従ってなされたもの」であることを意味し、「T」は「トモダチ」すなわち児玉を、「H」は「ハーヴェイ」すなわち福田をそれぞれ意味するものである、「H」と記載された分は福田に行く分であるが、この分も含めて児玉から領収証を徴している、と証言している(〈書証番号略〉)。

この七〇〇万円についての児玉の領収証も存在する(〈書証番号略〉)から、その支払があったことは明らかである。

なお、この七〇〇万円は契約に基づく支払額を上回るものであるが、クラッターは、年末あるいは年の中頃の支払も一〇一一販売計画に関連して児玉との間で合意していた基本的な報酬額以上にされたものではなく、総支払額の見積りに含まれていた、「私は、コンサルタント契約が発効した後、中元あるいは歳暮とみなされるようないかなる支払のあったことも記憶していない」と証言している(〈書証番号略〉)。しかし、右七〇〇万円が中元として支払われたことは明らかであるから、この点のクラッターの証言は記憶違いであると考えられる。なお、「コンサルタント契約の発効」というのが、基本契約書及び修正一号契約書の調印を指すものとすれば、右調印はコーチャンの証言によれば昭和四八年夏であるから(〈書証番号略〉)、右七〇〇万円の支払は「コンサルタント契約の発効」の前である可能性がある。

契約に基づく支払額と実際の支払額が食い違うこともおよそありえないことであるとまではいい難い。

③ 昭和四九年二月二五日の一五〇〇万円について

「摘要」の同日付けの備考欄には「T―4シップス援助」と記載されている(〈書証番号略〉)。

クラッターは、この記載がどういう意味か思い出せないが、「摘要」に記載してある以上、L―一〇一一に関係していると思う、と証言し(〈書証番号略〉)、また、この頃の日記を見ながら、当時ロッキード社はキャセイパシフィック航空にL―一〇一一を売り込むことに非常に熱心であって、自分(クラッター)は会話の中でL―一〇一一飛行機のことをシップとかエアシップと呼んだことがあると証言するとともに、「キャセイ・パシフィックは、結局何機のL―一〇一一機を買ったのですか。」という質問に対し、「その最初の注文が三機であったか、四機であったか、はっきりしません。」と答えている(〈書証番号略〉)。

したがって、クラッターは「児玉は一〇一一機をキャセイパシフィックへ売り込む工作に何らかの関係があったか」との質問に対しては「私の記憶にはありません」と答えているが、この一五〇〇万円の支払が児玉からキャセイパシフィック航空へのL―一〇一一機の売り込みにつき協力を得るための報酬であったと推測することも可能である。

その支払がされたことは、児玉の領収証が存在すること(〈書証番号略〉)からも明らかである。

④ 昭和五〇年三月四日の五〇〇〇万円について

この支払についても児玉の領収証が存在しており(〈書証番号略〉)、クラッターは、児玉の方から連絡があって、何のためであるか詳しいことは不明であるが、資金が必要であるといって五〇〇〇万円を前払金として要求され、我々がその資金を提供するならば、その支払は将来支払うことになる可能性のあるP―3C(対潜哨戒機)の手数料の前渡金ということにしようと示唆した、私はコーチャンと連絡をとり、話し合ったが、コーチャンはその資金前渡しに賛成した、ロッキード社が最終的にこの支払をL―一〇一一の手数料としたか、P―3Cの手数料の前渡しとして処理されたのかは知らない、と証言しているから(〈書証番号略〉)、右五〇〇〇万円の支払がされたことを疑うべき根拠はない。なお、〈書証番号略〉によれば、コーチャンやクラッターは、児玉に対してP―3Cの日本政府への売り込みについても協力を依頼し、児玉から助言を得た事実があり、昭和四八年七月二三日付けでロッキード社P―3型オライオン航空機の販売活動に関するロッキード社と児玉との間のマーケッティング・コンサルタント契約・修正第四号の契約書(〈書証番号略〉)が作成されたことが認められるから、コーチャン及びクラッターは右修正第四号契約に基づいて児玉に対する支払がされた事実はないと証言しているが(〈書証番号略〉)、児玉に対する支払をP―3Cの手数料の「前払い」として支払うことはありうるものと考えられる。

控訴人らの指摘するように、クラッターは、この支払に関連して、一九七五年(昭和五〇年)のいつかに二つの販売コンサルタント契約と二つの修正契約に基づく特定の債務の履行としてでなく、児玉に対して何か支払ったことがあるかどうかは記憶がない、児玉から販売コンサルタント契約に基づかないで金を要求されたことがあるかどうか記憶がない、と証言しており(〈書証番号略〉)、コーチャンも、一九七五年(昭和五〇年)三月四日頃にマーケットコンサルタント契約で規定されている以外に児玉に対する支払を承認した記憶はない、児玉に対し、P―三計画における児玉の販売についての援助に関連して先払い手数料を支払うことをクラッターに承認した記憶はない、と証言している(〈書証番号略〉)。しかし、これらの証言は、確実な記憶に基づくものではないから(〈書証番号略〉によれば、コーチャンは、顧問料の前払いをクラッターに承認したことはありうるが、「私は実際のところ何も確固とした記憶はありませんが、顧問料とか、何時それが支払われるかといった問題は全て非常に融通のきくことでした。」、「そして、若干の追加の支出について、私が腹を立てた事実があるのです。」、「かれが受け取ったかも知れないことは十分ありうることです。しかし、私は何も持っていないのです。私がそれを承認したとしても、別に私は驚きませんけれど、でも、私は何も記憶がないのです。」とも証言している。)、前記五〇〇〇万円の支払があったとの認定を左右するものではない。

また、支払を契約書に基づくものにするために契約書を作成したのであっても、契約書作成後は契約書以外の支払が全くありえないとまではいえない。

この五〇〇〇万円の外国送金受領証(〈書証番号略〉)の作成日付は一九七五年一月二〇日とされており、「二月一五日までに引き渡すこと」と指定されているが、これらの日にはクラッターは既に送金先とされているホーマットプレジデント二一〇号室を明け渡していたことは当事者間に争いがない。しかし、「摘要」(〈書証番号略〉)によれば、クラッターにその交付が三月四日にされており、〈書証番号略〉によれば、クラッターは昭和五〇年三月一日に日本に入国し、同月七日に出国していることが認められる。したがって、右外国送金受領証の記載は何らかの手違い(被控訴人主張のような事情によるものであることも考えられる。)によるものであると推測され、この点を根拠に児玉に対する五〇〇〇万円の支払はなかったとすることはできない。

6  児玉領収証について

(一) 児玉領収証の異常性

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

①ア 〈書証番号略〉(佐藤敬之輔の鑑定報告書)は、ゴム印の「児」だけが約0.6ミリメートルずれており、これは旧字体の「兒」の字が新字体の「児」の字にすげ替えられたために生じたものであって、すげ替え以前のゴム印は昭和三六年までにハワイ、香港、東京都及びその周辺で製造された確率が高く、すげ替えは昭和三六年以後に東京及びその周辺で行われた確率が高いとする。また、丸印については、「福田」印と、「児玉」の「日」の部分及び「福田」の「福」の「田」の部分と「田」の字のそれぞれの中横線の右端が縦線と離れているかどうか、これらの部分又は字の左上隅の部分が離れているかどうか、「児」の「日」の部分の左下の曲線部分と「福」の「田」の部分の左下の曲線部分が一致しているかどうか、「児」、「玉」、「福」、「田」の四字のそれぞれの縦一か所、横一か所の線幅と各印章の直径の比率が一致するかどうかを検討した上で、丸印と福田印は九五パーセントの確率で同一の彫刻者によって製作されたとしている。

しかし、〈書証番号略〉によれば、佐藤敬之輔は、レタリング(文字に表現する行為、表現する技術)及びタイポグラフィー(活字を利用して文章を印刷する技術)の専門家であって、このような鑑定を行ったのは初めてであることが認められ、また、鑑定の資料の収集先が外国についてはハワイ、ロスアンゼルス、サンフランシスコ、香港等に限定されているが、その理由として、同人は、鑑定を依頼された事件がアメリカと関係があるらしいという前提があったからであると証言しており(〈書証番号略〉)、最初から一定の予断をもって鑑定に臨んでいることが窺われる。結論を導くについて仮定に仮定を重ねている部分があること、検察官の反対尋問に際して、鑑定報告書の誤りを認めたり、当初の見解を撤回したりしている部分があることも認められる。

ゴム印の「児」の字が付け替えられたものであるという点については、〈書証番号略〉によれば、ゴム印の文字がずれる原因としては、活字それ字体の製造過程で生ずる場合やゴム印の製造過程で生ずる(ゴムは一定の割合で縮むとされており、縮み方はゴムの質や熱の加え方によって一様ではない。)ことがあることが認められる。また、同一の彫刻者が同一の字画の文字を彫るとには、共通の特徴が現れるかどうかという点については、〈書証番号略〉によれば、彫刻師は、印章を彫刻する際に、印面に墨で文字を書くときには、全体のデザイン、バランス、文字の深みとか味わい等を考えて工夫を凝らすのであって、できあがった文字は一個として全く同じというものはなく、それが手彫りの大きな特徴であること、したがって同じ彫刻師が彫った同じ寸法の同じ書体の字でも決して同じものはできないことが認められる。

以上のとおり、右鑑定は、その前提や結論を導く過程に誤りがあるものと認められるなど、右に述べた点に照らして、採用することができない。

イ 控訴人らは、ゴム印と丸印の使用状況が異常であると主張するが、特段異常というほどのものではない。したがって、この事実から何らかの推測をするのは合理的ではない。

なお、控訴人らは、ゴム印、丸印の使用と福田の関与との間に何らかの関連があるかのように主張するが、〈書証番号略〉によれば、JPR社の株式売買契約書(児玉がJPR社の株式をヒル・アンド・ノウルトン社に売却した際の契約書)は、児玉の丸印が使用されているが、福田が児玉事務所に右契約書を届けた際には児玉は不在であって、後日児玉の署名がされ、丸印が押捺された契約書を受け取ったことが認められる。したがって、この場合には、丸印の使用について福田は関与していないことは明らかである。

② 児玉領収証の大部分は「仮領収証」という表題になっているが、〈書証番号略〉によれば、福田は「仮領収証」も「レシート」と英訳しており、クラッターと児玉との間で、右仮領収証は臨時のものであるとか、後に別の領収証を発行するという話は一切なかったことが認められるから、「仮」領収証という表題に特別の意味はないものと推認することができる。

チェックライターの使用についても、異常というほどのものではない。

昭和五〇年三月四日付け及び同年五月七日付け各領収証の回転日付ゴム印がそれ以前の領収証のものと異なるという点も、異常であるとはいい難く、これらの領収証が偽造されたことの根拠になるものではない。

昭和五〇年七月二九日付けの二通の領収証(〈書証番号略〉)の日付は肉筆であるが、〈書証番号略〉によれば、この日付は大刀川の筆跡である可能性が大きいものと認められる。そして、児玉(〈書証番号略〉)及び大刀川(〈書証番号略〉)は、昭和五〇年七月頃、クラッターと福田がロッキード社からの金を持って児玉宅を訪れ、児玉に現金を渡した際には大刀川も同席した旨供述しており(さらに、児玉は、昭和四九年に児玉が入院して退院した後頃から、クラッターが訪ねてきたときには大刀川を同席させるようにしていたので、同人は児玉とロッキード社との関係やロッキード社から顧問料等を受け取っていることを知るようになっていたと供述し、大刀川は、右の昭和五〇年七月頃には、現金の入った鞄を児玉とともに奥の仏間に運び、洋服ダンスの中にしまったと供述している。)、大刀川が領収証を作成する機会は十分あったものと認められる。

③ア 授受場所についての不自然性

児玉宅の改築期間中も、残存建物部分で訪問客と会うことが可能であったことは、既に述べたとおりである。

イ 関係者の所在についての不自然性

クラッターが昭和四六年一月一四日に出国して翌一五日から同年三月九日までの間日本に滞在していなかったことは当事者間に争いがない。

しかし、出国の当日である一月一四日は、クラッターが児玉に現金等を届けることは不可能ではない。

昭和四六年(一九七一年)一月三一日に送金された一億二五〇〇万円は、クラッターが東京にいなかったので、エリオットが受領し、後日エリオットがクラッターに渡したものであることは既に認定したとおりである。そして、福田は、昭和五一年二月二七日に、検察官に対して、数年前に一回だけエリオットを児玉の所へ案内したことがあると供述している(〈書証番号略〉)。したがって、二月一日に二五〇〇万円を児玉に交付したのは、クラッターではなく、エリオットであったものと推測することができる。もっとも、クラッターは、昭和四六年二月一日の二五〇〇万円の支払に関連して、「あなた以外の人があなたの依頼で、この特別勘定にある交付をしたことがありますか。」との質問に対して、「あるとは思いません。」と答えているが、その直後に「私はそれに答えることができません。」とも答えており(〈書証番号略〉)、明確に否定した趣旨であるかどうか明らかではない。コーチャンも、児玉に対する現金や証券の支払は「私の知る限りでは、これらは、すべてクラッター氏によって届けられました。」と証言している(〈書証番号略〉)が、全く例外がない趣旨であるとまでは解されない。さらに、ニューマン報告書の付属提出書類(〈書証番号略〉)にも、エリオットは、受領した円貨を、日本の航空会社の役員に対して自ら金を渡した二度の場合を除いて、クラッターに渡したとの記載があり、エリオットが自ら児玉に円貨を渡したという記述はない。しかし、エリオットの児玉に対する交付を全面的に否定する趣旨であるかどうかは明らかではない。

また、昭和四四年七月二一日の一〇〇万円については、「摘要」では七月二一日であるが、クラッターは「摘要」の日付について「私は能う限り、金員受領の実際の日付及び交付の実際の日付を記入しようとしましたが、一日かそこらは遅れているかも知れませんが、私の意図はそういうことでした」と証言しており(〈書証番号略〉)、「摘要」の七月二一日という記載は実際の日付とは一日位の相違はありうるものと認められる。したがって、児玉が七月二〇日に北海道旅行に出発しているとしても、その頃一〇〇万円が児玉に交付された事実が左右されるものではない。そして、七月二一日付けの児玉領収証は存在しないが、「摘要」(〈書証番号略〉)の一九六九年(昭和四四年)一二月一一日の備考欄に「66M2/5/70」との記載があり、クラッターは、この記載の意味について「66」は一九六九年に交付された合計額である六六〇〇万円を意味し、「2/5/70」は一九七〇年二月五日の日付を意味すると証言している(〈書証番号略〉)。すなわち、この時点で昭和四四年中の交付額の合計を算出したものと思われる。そして、昭和四五年(一九七〇年)二月五日の直後に交付されたのは同年二月二八日の一三〇〇万円であるが、同日付けの児玉領収証は一四〇〇万円である(〈書証番号略〉)から、昭和四四年七月二一日頃に交付した一〇〇万円については、昭和四五年二月二八日付けの領収証の金額に合算したものと推測することができる。

ウ 形式上の不自然性

控訴人らが主張する点は、いずれもそれほど不自然であるというものではなく、児玉領収証が偽造であるとする根拠になるものではない。

また、福田は、クラッターが児玉に現金等を渡した際には、児玉はその場で封筒に入った領収証をクラッターに交付しており、児玉は、顧問料は契約で決まっていたからあらかじめ金額を連絡しなくとも分かっており、それ以外の金員については次回に授受する金額について打ち合わせをしていた、あらかじめ持参する金額を福田が連絡しておくこともあった、と供述している(〈書証番号略〉)。この供述によれば、児玉領収証は現金等の交付に先立ってあらかじめ作成されていたものと推測され、そうであるとすれば、実際の現金等の交付の日とあらかじめ準備されていた領収証の日付とが異なること、その場合には領収証の日付を訂正しないこともありうるものと考えられる。

また、福田は、領収証が数日間にわたって連続して発行されているものがあるが、このように連続して現金等と領収証のやりとりをした記憶はなく、この頃、クラッターが児玉に対して、領収証を何枚かに分けて発行するように依頼していたことがあり(〈書証番号略〉)、昭和四七年一一月上旬に交付された六億円相当の小切手についても、クラッターは児玉に領収証の日付、枚数、全部で六億円になるように金額を分けることを連絡してあった(〈書証番号略〉)と供述している。クラッターも、二回以上の支払に対して一枚の領収証の発行を受け、一回の交付に対して何枚かの領収証を受け取ったことがあると証言している(〈書証番号略〉)。したがって、このような方法で領収証が発行されたことがあったものと認められる。

「摘要」(〈書証番号略〉)の昭和四七年(一九七二年)一〇月三一日の三億九〇〇〇万円の交付の欄に「7R」と記載されている意味について、クラッターは、七枚の領収証を受け取ったという趣旨であると証言しているが(〈書証番号略〉)、領収証は五通しか存在しない(〈書証番号略〉。この五通で合計三億九〇〇〇万円となる。)。この食い違いの理由は明らかではないが、このことをもって領収証が偽造されたものであるとはいい難い。

(二) 児玉領収証の作成・交付の状況について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

① 福田の検察官に対する供述調書について

福田の、「児玉は、金員を受領するのと引換えにあらかじめ用意していた封筒入りの領収証をクラッターに渡していた」旨の供述(〈書証番号略〉)は、通常の領収証の交付の状況を述べたものであることは当然であって、例外がありうるものと解される。

なお、昭和四六年一月三一日付け五〇〇〇万円の領収証(〈書証番号略〉)は、同年一月一四日と二月一日に交付された各二五〇〇万円の金員に対応するものであると推認されるが(別表参照)、二月一日にはクラッターではなくエリオットが児玉に金員を交付していることは既に認定したとおりである。

また、昭和四八年一一月三日に交付された五三〇〇万円、ロスアンゼルス空港で小佐野に交付されたものであって、クラッターは、その領収証は児玉が作成した(〈書証番号略〉)、小佐野からは領収証は受け取っていない(〈書証番号略〉)、と証言しており、〈書証番号略〉によれば、クラッターは同年一一月一三日に日本に帰っていることが認められるから、クラッターは、その頃、児玉から領収証(昭和四八年一一月三日付け各二六五〇万円の二通の領収証。〈書証番号略〉)を受け取ったものと推認することができる。

なお、福田は、右三通の領収証について、「これもすでに申したような状況で私が英訳してやったものに間違いありません。」と供述しているが(〈書証番号略〉)、この供述は、領収証の英訳の状況についてのものであると解され、右三通の領収証が金員の受領と引換えに児玉からクラッターに渡されたということを意味するものであるとは到底解されない。

児玉はクラッターから受領した金員の包みの中身をその場で確かめていないという点についても、ロッキード社ないしクラッターと児玉との間に信頼関係があればそのようなことも決して不自然ではなく、両者の間には強い信頼関係があったことは明らかである。なお、〈書証番号略〉によれば、児玉は、金員を受領後にその金額を確認していたことが認められる(児玉は、これらの供述調書において、当初、実際に交付された金額が約束の顧問料の金額に足りないことがあったと供述し、その後、そのような事実はなかったと訂正している。)。

児玉がクラッターが持参する現金等の金額をどのようにして知ったかという点については、福田が、顧問料についてはあらかじめ分かっており、そのほかに次回の金額を打ち会わせたり、福田が金額を連絡したと供述していることは既に述べたとおりである。控訴人らは、基本契約で定められた顧問料の支払時期及び金額(毎年一月一日及び七月一日に各二五〇〇万円を支払う。)に合致する領収証は存在しないと主張するが、持参する金額をクラッター側が児玉にあらかじめ連絡することは容易であって、何ら障害はないのであるから、何らかの方法であらかじめ知ることができたものと推測される(なお、福田は、〈書証番号略〉において、クラッターを同行して児玉宅等へ行くときには、必ず事前に児玉と電話で都合の良い時間と場所を打ち合わせていた旨供述しており、その際、金額を連絡することは容易である。)。

② クラッターの証人尋問調書について

〈書証番号略〉における質疑応答は、「あなたは、通常、金を渡して児玉氏から領収証を受け取る時、どのようにしていたのですか。」という質問に対し、クラッターは、「さあ、クラークさん、私の記憶では、いつも福田氏がいたと思いますが、私は、渡したあと児玉氏の領収証を受け取っていました。そしてそれには福田氏がその領収証を型どって薄紙に書いた英訳がついていました。」と答えているのであって、児玉から領収証を受け取った事実はなく、福田から英訳文とともに領収証を受け取った事実があるだけであるという趣旨であるとは直ちに解することはできない。むしろ、クラッターは、〈書証番号略〉においては、「当時あなたは児玉氏からその支払に対する領収証を受け取っていましたか。」との問いに「はい。」と答え、「彼は、あなたに領収証を渡すのをいやがったことがありますか。」との問いに「いいえ。全くありません。」と答えており、〈書証番号略〉におけるクラッターの証言の趣旨も領収証は福田が同席している場所で児玉から受領したということであると解するのが相当である。

そして、〈書証番号略〉の「領収証には福田氏がその領収証を型どって薄紙に書いた英訳がついていた」という部分は、〈書証番号略〉の福田の供述(クラッターから領収証の日付の一日か二日位後までの間に児玉領収証を渡されて、その英訳を頼まれ、その都度、クラッターの手元にあった紙に領収証の全文及び収入印紙とその消印に至るまで英訳した上、児玉領収証に添えて英訳した文書をクラッターに渡していた、英訳をする際には日本語の領収証の上にクラッターの手元にあった紙を載せて、日本文字の書いてある上にその日本文字の英訳文が該当するように書き、上に載せている紙に下の日本文の領収証がすかして見えるので、写っているところをなぞるように書いた、と供述している。)と完全に一致している。

したがって、児玉領収証の授受とその英訳文作成の経緯についてのクラッターの証言と福田の供述は、むしろ合致しているのであって、相反するものであるということはできない。

昭和四八年一一月三日付け領収証については既に述べたとおりである。

③ 児玉の検察官に対する供述調書について

〈書証番号略〉(児玉の陳述書)には、児玉は検察官に対して、クラッターらから金員をもらった都度、福田が児玉に代わって児玉名義の領収証を丸印とゴム印を使って作った上、クラッターらに渡していた、というような説明をしたことはない、取り調べ当時の自分の体調は悪く、検察官の質問を理解できないことがあり、正確に説明できないことも数多くあった、調書を読み聞かされてもその内容を確認できないこともあった、とする部分があり、〈書証番号略〉(控訴人児玉睿子の証言調書)及び〈書証番号略〉(同人の体調等日記)には、児玉の体調についてこれを裏付ける証言又は記載がある。しかし、右各証拠は、〈書証番号略〉に照らして信用することができない。

そして、児玉の領収証に関する供述をみると、次のように変遷している。

〈書証番号略〉(昭和五一年三月四日付け供述調書)では、児玉名義のロッキード社宛の領収証を発行したことを強く否定している。

次いで、〈書証番号略〉(同年四月一八日付け供述調書)及び〈書証番号略〉(同年四月二〇日付け供述調書)においては、ロッキード社の関係で作られている児玉名義の領収証に押捺されている児玉名義の丸印は、盗難被害届出済証明願に押捺した印であって、この丸印は昭和三三、四年頃からあってロッキード社に渡す領収証に使用されていたものである。この丸印は、おそらく福田が作って、自分がこれをロッキード社との関係で領収証などに使用しても良いと了解していたように思う、領収証を作ったのは自分ではなく、福田が自分のために自分に代わって作成し、クラッターらに渡す仕事をやってくれた、丸印は福田が持っており、これまでに数回児玉の方に預けにきたことがあり、昭和五〇年夏頃にも預かったが、同年暮れにロッキード社関係の文書等を整理したとき一緒に焼却した、と供述している。

〈書証番号略〉(昭和五一年八月二八日付け供述調書)では、〈書証番号略〉と同旨の供述をするとともに、「児玉譽士夫」のゴム印についても、福田が作り、福田が保管しており、領収証に使用した、ゴム印を福田から預かり、焼却した事情は丸印と同一である、と供述している。ただし、丸印等は、昭和五〇年夏頃から年末まで引き続き預かっていたのではなく、福田は昭和五〇年一〇月頃にこれを持ち帰り、一二月初め頃に再び預けに来た、と供述を変更している。

以上のように変遷しているところ、〈書証番号略〉によれば、検察官は、昭和五一年四月一〇日頃までに丸印が盗難被害届出済証明願にも使用されていることを探知したことが認められ、児玉も、検察官が右事実を探知したことを察知し(〈書証番号略〉の昭和五一年四月九日付け供述調書で、大刀川は、児玉から丸印を預かって右証明願に押捺したと供述している。)、領収証の発行を全面的に否定することは困難であると考え、〈書証番号略〉のように供述を変更し、さらに、その後同年八月末頃に至り、検察官に、ブラウンリー社関係の書類中、昭和五〇年一〇月に作成された名義株主契約書(〈書証番号略〉)及び被指名経営者契約書(〈書証番号略〉)の各保証人欄にゴム印及び丸印が押捺されていることを探知されたものと考え(児玉は、〈書証番号略〉の昭和五一年七月一七日付け供述調書では、昭和五〇年夏頃と秋頃に、児玉とロッキード社との顧問契約を解約し、香港の会社とロッキード社との顧問契約に切り替え、児玉の地位を右会社に引き継ぐという話になり、その関係の文書にサインをしたが、ゴム印や丸印は使用しなかったと供述しているが、〈書証番号略〉の昭和五一年八月二八日付け供述調書では、香港の会社に自分の地位を引き継ぐ際の契約書にも、おそらく福田が例の丸印とゴム印を使っていると思うと供述を変更している。)、自分が右契約書に丸印を押捺したことを否定するために、昭和五〇年夏以降丸印を福田から預かっていた旨の供述を〈書証番号略〉において昭和五〇年一〇月頃には丸印が福田の所にあったようにその供述を変更したものと推認することができる。

すなわち、児玉は、検察官による事実の解明の進展ないし新しい証拠の発見に対応して、これと矛盾しないように順次供述を変更していったものとみざるをえない。

なお、福田は、児玉領収証は児玉が作成したものであり、福田が丸印を購入したり、児玉から預かったり、使用したりしたことは全くないと供述しており(〈書証番号略〉)、児玉の前記供述は、領収証が発行されていることを全面的に否定することはできないので、領収証作成の責任を窮余福田に転嫁したものと考えられる。

④ 最終日付領収証について

高澤証人は、自己の鑑定書(〈書証番号略〉)の「推定される」という表現について、「断定」することはできないと証言しているが、その趣旨について、断定というのは鑑定書に書かれた以外のあらゆる可能性が全く否定されることになるので、そういう意味で断定はしない、また、他の者の筆跡である可能性も零であるとして全く否定することはできない、これは論理的な問題である、また、筆跡は、同一人が書いても変化し、他人が書いても似ていることがあるから、同一人の筆跡であるかどうかということを完全に決定付けることはできない、と証言しているのであって(〈書証番号略〉)、断定という表現は他の可能性をすべて否定するものであるから論理的に妥当ではないということと、筆跡鑑定の限界について述べているのであるから、「断定」ができないという証言をとらえて、右鑑定結果が証拠としての価値がないもののようにいうのは、当をえたものではない。

そして、右鑑定結果(〈書証番号略〉)は、鑑定の経過・方法、結論を導く理由等に照らして、これが妥当性を欠くというべき根拠はない。

控訴人らは、最終日付領収証の日付欄の手書き部分と大刀川の筆跡にはいくつかの類似点があることを認めつつ、同時に顕著な相違点もいくつか認められるとして、右手書き部分は大刀川の筆跡を真似て書かれたものであると主張するが、合理的根拠のない憶測を重ねたものにすぎず(殊に、領収証を偽造するについて、その作成名義人である児玉ではなく大刀川の筆跡を真似たものであるとする点は、全く根拠が明らかではない。)、到底採用することができない。

⑤ 盗難被害届出済証明願への丸印の使用について

福田が丸印を児玉から預かったり、これを使用したりしたことはない旨明確に供述していることは既に述べたとおりである。

そして、大刀川も、児玉に命じられて玉川警察署へ盗難被害届出済証明書をもらいに行き、右証明願に児玉から預かって持って行った丸印を押捺して作成し、これに証明文言を記載した証明書を受け取り、右証明書は児玉に渡し、同時に丸印も児玉に返還した(〈書証番号略〉)、この丸印は右証明願に昭和四八年一、二月に使用したほかに、昭和四八、九年頃であったと思うが、銀座の児玉事務所に保管されていたことが二、三度あった(〈書証番号略〉)、と供述している。もっとも、大刀川は、刑事事件の被告人質問においては、以上の供述を翻し、丸印は児玉が使用していたものではなく、児玉が福田から渡されたものであって、この丸印を使用して盗難被害届出済証明書をとり、丸印と右証明書は福田に届けた(〈書証番号略〉)、丸印が児玉の事務所に保管されていたという点も、二度ほど預かったことがあるようだということを耳にしたことがあるだけで、確認した訳ではない(〈書証番号略〉)、と供述するに至っているが、信用することができない。

したがって、右証明願には福田の要請に従って預かった丸印を使用したにすぎないものとは到底認めることができず、〈書証番号略〉の記載は信用することができない。

昭和四八年一月三日付けの被害届及び同月九日付けの追加被害届(〈書証番号略〉)には丸印が使用されていないという事実は、〈書証番号略〉の記載を直ちに裏付けるものではない。

右証明願に丸印が使用されている事実は、児玉領収証が真正に作成されたものであることを裏付ける極めて有力な根拠であるものということができる。

(三) ロッキード社による児玉領収証を利用しての裏資金操作について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

① シャッテンバーグのクラッター宛の一九七二年(昭和四七年)一〇月一六日付け書簡(〈書証番号略〉)には、「私は、ディーク及び代理人(エージェント)の領収証に基づいて、取引関係を再構成してみた。同封した算出表はその結果できたものだ。」「一九六九年六月二一日付けの代理人(エージェント)の領収証から始まる全ての資金を回収するのが妥当だろうか。」という記述があり、クラッターは「その手紙でですね。出てきているエージェントというのは、児玉氏だということは判りますか。」との質問に対して、「はい。そうだと思います。」と答えている(〈書証番号略〉)。

しかし、右書簡にいう「エージェントの領収証」が、厳密に児玉名義の領収証だけを意味するものであるかどうかは明らかではない。クラッターの右証言もエージェントの意味について推測を述べているにすぎず、具体的に算出表の「一九七二年一一月六日、九〇〇〇万円」の支払が児玉に対する支払であるとか、この記載が児玉領収証に基づくものであるというものではない。

また、クラッターは、右算出表の「一九七二年一一月六日、九〇〇〇万円」に該当する「摘要」の同日付けの九〇〇〇万円の支払について、「それは、大久保氏の領収証を受け取っている丸紅へ行った九千万円です。」と証言しており(〈書証番号略〉)、同日付けの「T・O」というサインのある九〇ユニットの領収証が存在する(〈書証番号略〉)。このように、クラッターは、この九〇〇〇万円について大久保の領収証を受け取っているのであるから、重ねて児玉名義の領収証が必要であったとは考えられない。控訴人らは、ユニット領収証では会計処理ができないので、架空の児玉領収証を作成したと主張するが、根拠のない推論にすぎない。

したがって、前記書簡の記載から控訴人らの主張するような結論を導くことはできない。

② コーチャンは、「全日空(ANA)L―一〇一一コミッション支払義務」と題する一覧表(〈書証番号略〉)の「A、3」欄の記載について、「第7機から第14機まで 96万ドル」というのは、その日付には未だ引き渡されていなかった八機に対するもので、その一二万の八機はこれから払われるものであったと証言しているが、それ以外のものは小佐野、福田分を含んだ「児玉氏の総経費、つまり我々が児玉氏に支払った金を意味します」と証言している(〈書証番号略〉)。

しかし、コーチャンは、右一覧表はクラッターが作成したか否か事実としては知らないが、クラッターの手書きのようだと証言しており(〈書証番号略〉)、コーチャンが作成したものではないことは明らかであるから、コーチャンの右証言が正確なものであるかどうか疑問がある。したがって、右証言によって直ちに、右「A、3」欄記載の金額がすべてロッキード社において児玉に対して支払われたことにされているものと認めることはできない。

そうすると、右「A、3」欄の記載のうち「摘要」に含まれていない「一九七三年一〇月、八五万ドル」及び「一九七四年一月、九〇万ドル」あるいは右「A、3」欄記載の金額が「摘要」の金額を超過する金額がロッキード社において児玉に対して支払われたことにされていることを前提とした上で、これに該当する児玉名義の領収証が偽造されたとする控訴人らの主張は、その前提を欠くものである。

なお、控訴人らは、ロッキード社側は、丸紅のヒロシ・イトーに支払ったとされる三億七五〇〇万円について、これに対応する児玉名義の領収証を偽造して仮装の会計処理をしたと主張するが、右三億七五〇〇万円についてはヒロシ・イトー名義のピーナツ・ピーシーズ領収証が存在するのであるから(〈書証番号略〉)、控訴人らの主張は到底肯認することができない。

シグ・片山名義の領収証と児玉に対する支払ないし児玉領収証とに何らかの関連性があることを認めるに足りる証拠はなく、控訴人らの主張は根拠のないものである。

③ 大刀川は、昭和五四年一一月一五日の公判において、昭和五一年二月六日に福田宅を訪れた際に、福田から、実は児玉領収証は自分が作ったと聞いた、しかし、このことを当時病床にあった児玉に伝えたならば、病状が急変するかもしれないし、福田自身の口から児玉に言うべきであるとも考えて、児玉には報告しなかった、また、検察官に対しても福田自身が供述するであろうと考えて、同年九月一日まで検察官にもこのことは供述しなかったが、同日検察官から、福田が真実を語っていないばかりか、大刀川が証拠湮滅を図っているかのような供述をしていると聞いて、九月一日に初めて検察官に対して福田の告白について供述した、と供述している(〈書証番号略〉)。

しかし、右供述は、福田の告白について児玉に報告せず、検察官に対してもその年の九月一日に至るまで供述していない理由が納得できず、信用することができない。

また、〈書証番号略〉によれば、福田の娘であって昭和五一年当時福田の自宅に同居していた福田輝子は、福田が一時退院して自宅に居た昭和五一年一月二四日から同年二月六日までの間に福田を訪ねて来た者はなく、大刀川が訪ねて来たこともないと証言していることが認められ、この証言と対比しても、大刀川の前記証言は信用することができない。なお、右証人は、福田自身が来客を迎えに出ており、福田が来客について右証人に逐一報告することはなかったとも証言しているが、右証人や母親には来客があったかどうかは分かると証言しているから、右期間に大刀川が訪れた可能性は少ないと考えられる。

さらに、大刀川は、検察官に対して、昭和五一年四月九日には丸印を児玉から預かって盗難被害届出済証明願に押捺した旨供述し(〈書証番号略〉)、同月一九日には昭和四八、九年にも丸印が児玉の銀座の事務所に保管されていた旨供述している(〈書証番号略〉)のであって、この点からしても大刀川の前記供述は不合理である(〈書証番号略〉における供述を翻した〈書証番号略〉の大刀川の被告人質問における供述が信用できないことは前述のとおりである。)。

児玉の陳述書(〈書証番号略〉)の、昭和五一年二月七日に福田が電話で「今、公表された児玉領収証は、クラッターに頼まれて自分が作っていたのです。」と説明したという部分も採用することができない。

④ コーチャンは、ロッキード社はパリに帳簿外の口座を有しており、この口座から、航空機の販売に関して、オランダの政府高官、オランダの航空会社の役員、キャセイ・パシフィック航空の役員、香港の会社であるIDコーポレーション等に支払をしたと証言しており、また、チャーチ上院議院の質問の中に「当委員会がノースロップについてその聴問会を開き、ノースロップがどの様にしてこの種のことをするかについては、ロッキードから学んだということを聞かされた」という部分がある(〈書証番号略〉)。

しかし、コーチャンは、この金がロッキード社において経理上どのように処理されたかは知らないと証言しており、右証言から直ちに控訴人らが主張するようにロッキード社が各国に配置していた代理人等の名義を利用して資金操作をしていたものと認定することはできない。また、右事実から児玉名義の領収証が偽造されたという結論が導かれるものではない。

⑤ シャッテンバーグの算出表の「帳尻合わせ」については既に述べたとおりである。

また、〈書証番号略〉によれば、ニューマン報告書付属提出書類には、「エリオットは、当委員会に対して、支払が虚偽の領収証の発行と引かえになされたことを語った。」として「ピーシーズ領収証」等について記述する部分に引き続いて、「当委員会はまた、特定のコンサルタントの円貨領収証は、次の二つ、すなわちその一つは、そのコンサルタントに渡された二〇〇万ドル相当額の持参人払い小切手に対するものであり、あとの一つは、日本航空会社の有力者であり且つ株主であることの身元が当委員会に判明している人物に対し、直接クラッターとシャッテンバーグが、米国内にて渡した米国通貨・二〇万ドルに対してのものであるとの情報・報告を受けている。上述の理由によって、すべての領収証の信憑性が疑わしく、当委員会はクラッター及びエリオットに供給された通貨が陳述されたように支出されたことを確認することができなかった。」と記述されていることが認められる。

すべての領収証の信憑性が疑わしいとする根拠である「上述の理由」というのが、何を意味するのか必ずしも明らかではないが、被控訴人が主張するとおり、持参人払小切手については支払がドルであるのに領収証が円表示であることであり、二〇万ドルの支払については支払がドルであるのに領収証が円表示であることと、現実にその交付を受けた者が児玉ではないのに児玉名義の領収証であることであろうと推測される。

しかし、持参人払小切手(合計二〇〇万ドルすなわち六億円のスイスフラン小切手及びドル小切手を指すものと解される。)及び二〇万ドル(ロスアンゼルス空港で小佐野に支払われた二〇万ドルであるものと解される。)についての領収証も児玉が作成し、交付したものであることは既に認定したとおりであるから、付属提出書類の指摘する点は児玉領収証が偽造である根拠になるものではない。

7  福田、コーチャン及びクラッターの各供述の信用性について

(一) 福田の供述について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

〈書証番号略〉によれば、検察官は、福田を、入院中の東京女子医科大学の病室において、昭和五一年二月二六日から同年五月二八日までの間に(福田は同年六月一〇日に死亡した。)五九日取り調べ三五通の調書を作成したこと、福田は同年二月七日から右病院に再入院したが、二月当時の病状は、食道あるいは胃周辺からの出血は止まっており、意識は極めて清明であるが、再度出血の危険があり、病状が好転する可能性はなく、点滴、輸血等の手当てによって現状を維持しているという状態であったこと、取り調べは、その都度、主治医が診察した上でその許可を得て行われ、主治医が許可しなかった場合には取り調べを見合わせたこと、取り調べに対する福田の供述態度は、良く記憶をたどろうとして、じっと考えて答えるというものであって、正確を期するために言葉を慎重に選んで供述しており、供述を渋るとか避けるということはほとんどなかったことが認められる。

右事実によれば、福田が正確に事実を伝える能力と意思に欠けていたということはなく、その記憶のとおりに供述をしようとしていたものと認められる。

控訴人らが福田の供述が真実ではない理由として主張する点は、十分な根拠のない憶測に基づくものであって、採用することができない(なお、クラッターが在日しない日付の領収証については既に述べたところである。)。

(二) コーチャン、クラッターの各証言について

(1) 控訴人らの主張〈省略〉

(2) 被控訴人の反論〈省略〉

(3) 当裁判所の判断

控訴人ら主張のようなコーチャンらの証言時の事情から、直ちにその証言が虚偽のものであると決めつけることはできない。

むしろ、コーチャン、クラッターの証言内容を検討すると、決して無責任な証言態度であるとは認められず、記憶がない場合や明確ではない場合にはその旨を率直に述べ、できるだけ正確に事実を証言しようとする真摯な態度であることが窺えるものというべきである。

「陰謀の件」が決して虚偽のものではないことは、既に述べたとおりであって、この点に関するコーチャンらの証言は事実に反するものではない。

また、控訴人らが指摘するように、クラッターは外貨建小切手を交付した日について控訴人ら主張のとおり証言しているが(〈書証番号略〉。なお、日記によれば一一月六日が正しいと思われると証言している。)、これは昭和四七年の事柄であって、証言時は昭和五一年であるから、明確な記憶がないとしても不自然ではなく、その証言があいまいであるとはいえない。

8  コーチャン、クラッター両名の証言調書の証拠能力について

(一) 控訴人らの主張〈省略〉

(二) 被控訴人の反論〈省略〉

(三) 当裁判所の判断

コーチャン及びクラッターに対する証人尋問は、我が国民事訴訟法に基づいて行われた手続ではないから、民事訴訟法二六四条、二九四条等の適用がないのは当然であって、控訴人らの主張は失当である。

また、このような手続における証人尋問調書も書証としての証拠能力を有することは原判決の判示するとおりである。

二北星海運株式の譲渡について

1  控訴人らの主張〈省略〉

2  被控訴人の反論〈省略〉

3  当裁判所の判断

(一) 山崎証言について

原審証人山崎文助は、控訴人らの主張に沿う証言をしているが、本件五一〇万株の購入代金一億五三〇〇万円のうち二八〇〇万円は北星海運が簿外資金から調達したが、右簿外資金については関与しておらず、北星海運の公表資金からは出ていないので簿外資金以外にはないと思ったのであって、その内容については全く分からない、児玉が北海道拓殖銀行から借り入れた一億四五〇〇万円の金利は北星海運が負担したが、これが最終的にどうなったか全然分からない、北星海運の児玉宛昭和四六年四月二二日付け右金利立替金の領収証(〈書証番号略〉)に見覚えはない、児玉に五〇〇万円の謝礼が支払われたことになっているが、実際に渡したかどうか分からない、右五〇〇万円は八洲観光開発株式会社から返済されているが、その理由は分からない、と証言しており、本件五一〇万株の購入及び売却についての全部の手続には関与していないという趣旨の証言である。しかし、右証言によれば、同証人は、昭和四三年から昭和四八年まで北星海運の経理部長であったというのであって、右手続の全部に関与していないというのは首肯できず、経験した事実をありのままに証言しているのか疑わしい。また、もしも、手続の全体には関与していないというのが事実であるとすれば、やはりその証言の信用性には限界があるといわざるをえない。

また、山崎証人は、本件五一〇万株はすべて児玉の名義を借りたものであって、その購入資金一億五三〇〇万円は全額北星海運が調達したと証言している。もしも、そのとおりであるとすれば、そのような事実を証明できるような措置をとれば足りるのに、このうち一億四五〇〇万円は児玉が支払ったという形をとり、児玉名義で北海道拓殖銀行から借入をし、その余の八〇〇万円だけを萩原が支払ったという形にしたと証言しており、なぜ五一〇万株のうち一部について殊更児玉の実質的取引であるかのような外形を作出したのか不可解である。

(二) 萩原の供述について

萩原は、昭和五一年三月一一日に、大蔵事務官に対して、本件五一〇万株の購入代金一億五三〇〇万円のうち一億四五〇〇万円は北星海運が一時資金手当てをし、残り八〇〇万円は児玉から直接支出されたと聞いている、萩原自身が八〇〇万円を支出したことはない、右八〇〇万円を萩原が出資した旨の児玉名義の念書(〈書証番号略〉)は記憶がなく、秘書の方にもそのような書類を受け取った記録がないので、自分の方に渡されたものではない、と供述している(〈書証番号略〉)。

また、昭和五八年八月二四日には、訟務検事に対して、児玉は、昭和四三年に北海道炭礦汽船から本件五一〇万株を一株三〇円で買い受け、昭和四六年に北海道炭礦汽船の関連会社三社が児玉から一株五〇円で右株を買い受けた、萩原が前記念書に記載されている八〇〇万円を出資したことはなく、念書の内容は事実に反する、右念書は当時は全く見たことがなく、最近になってから初めて見たものである、と供述している(〈書証番号略〉)。

ところが、萩原は、昭和六〇年六月一七日には、控訴人ら訴訟代理人に対し、以上の供述と異なり、全面的に控訴人らの主張に沿う供述をするとともに、前記念書には見覚えがあり、二六万七〇〇〇株は萩原の所有であることを確認しておくために作成した文書である、右二六万七〇〇〇株の代金八〇〇万円は児玉の資金ではなく、北星海運側が捻出した資金である、本件五一〇万株の売却代金二億五五〇〇万円は、①拓銀からの借入金の返済 一億四五〇〇万円、②右借入金の金利立替金の清算 四〇〇〇万円、③児玉に渡した現金 一〇〇〇万円、④児玉に渡した日本カーフェリーの株式相当金額三〇〇〇万円、⑤萩原名義拠出金回収分 八〇〇万円及び⑥北海道炭礦汽船側回収分 二二〇〇万円というように決済した、昭和五八年の五月か六月頃、国税局の係官が確認に来たので、概略本日述べた事情を説明しておいた、と供述している(〈書証番号略〉)。

そして、萩原は、大蔵事務官及び訟務検事に対する各供述と異なる供述をするに至った合理的理由について何ら述べていないのであるから、右控訴人ら訴訟代理人に対する供述は、信用することができないといわざるをえない。

また、右控訴人ら訴訟代理人に対する供述のうち、本件五一〇万株の売却代金の清算内容については、③、④及び⑥の金員の趣旨とそのような清算がされた理由が明らかではない(控訴人らは、③及び④の合計四〇〇〇万円は名義貸しの謝礼であると主張するが、これを裏付ける証拠はない。)。また、⑤の回収分八〇〇万円は、これを拠出したのは北星海運であるというのであるから、北星海運が回収するという趣旨であろうが、八〇〇万円に対応する株式二六万七〇〇〇株の売却代金は一三三五万円であるのに、八〇〇万円だけを回収する理由も不明である。②の金利相当額については、〈書証番号略〉では、北星海運が支払うことになっていたはずであるが、なぜこれを同社が回収することになったのか明らかにされていない。金利が四〇〇〇万円という端数のつかない金額であったという証拠もない。

なお、北海道拓殖銀行築地支店の南善一は、昭和四六年四月二二日に児玉が右支店に預手一億円と現金八五〇〇万円を持参したので、一億四五〇〇万円は借入の返済に充て、三〇〇〇万円は預手を作り、一〇〇〇万円は定期預金にした、と供述している(〈書証番号略〉)。しかし、この供述によって、児玉が本件五一〇万株の売却の際に受領した金員の総額が右一億八五〇〇万円だけであったと断定することはできないから、この供述が控訴人らの主張ないし萩原の控訴人ら訴訟代理人に対する供述を裏付けるとはいえない。

さらに、右南善一は、控訴人ら主張のとおり、昭和四五年一二月二三日に、萩原から電話で、担保に入っている北星海運の株式のうち五〇万株について一時的な担保解除の要請があった、と供述しているが、右南善一は、同時に、萩原からの右電話に続いて、児玉から、「北海道炭礦汽船の岩男部長をやるから同部長から念書を受け取って五〇万株を渡してやってもらいたい」との電話があった、とも供述しているから(〈書証番号略〉)、萩原から右申し入れがあったという事実は、右五〇万株を含む本件五一〇万株について児玉は単なる名義人にすぎないことを裏付けるものではない。むしろ、その後児玉から右のような電話があったことは、児玉が実質的な権利者であったことを示すものというべきである。

ところで、南善一は、〈書証番号略〉において、昭和四三年七月、児玉から北星海運の株五一〇万株を取得するために一億四五〇〇万円を借りたいとの申し入れがあり、同年八月一六日、児玉所有の箱根の土地・建物及び右株式を担保とし、かつ、萩原を連帯保証人として、貸付が実行された、と供述しており、児玉が実際に本件五一〇万株を取得したものであることが窺われる。そして、〈書証番号略〉によれば、児玉所有の箱根町箱根字細引山の土地及び箱根町箱根字芦川町の建物について、昭和四三年八月二三日受付で元本極度額を一億四五〇〇万円、根抵当権者を株式会社北海道拓殖銀行とする根抵当権設定登記がされ、右登記は昭和四六年一二月二三日に同年四月二二日放棄を原因として抹消されていることが認められる。南は、児玉からこの借入の金利は北海道炭礦汽船又は北炭観光株式会社が支払うという話があり、実際に北星海運から支払われた、また、児玉からこの借入の返済は北炭観光株式会社が責任を持ってすることになっていると聞いた(実際には昭和四六年四月二二日、児玉から返済があった。)、と供述しているが、児玉が本件五一〇万株を取得することになったのは北星海運側からの依頼によるものであるから(〈書証番号略〉において、吉水社長もその旨供述している。)、右のような北星海運による金利負担等の事実があったとしても、直ちに児玉が右株式の名義人にすぎないとはいえない。

(三) 菊池の供述及び坂巻の申述について

極東証券株式会社の菊池満社長は、昭和四三年頃、児玉の依頼で、児玉が北海道炭礦汽船から北星海運の株式五一〇万株を代金一億五三〇〇万円で譲り受けた際に立ち会ったことがある、同年四月頃児玉から購入代金の決済のための預手を預かったが(その金額について定かな記憶はない。)、受渡しが二回位、二か月間位遅れたので(どちらの事情で遅れたのかは忘れた。)、その間右預手を極東証券の取引銀行である三井銀行日本橋支店及び七十七銀行日本橋支店に通知預金として預けておいた、その後右通知預金を解約して預手に換え、北海道炭礦汽船本社で株券と引換えに右預手を北海道炭礦汽船に渡した、株券は銀座の児玉事務所に届けた、七十七銀行日本橋支店の預手は額面八〇〇万円である、通知預金の残金と利息は児玉宅に届けた、と供述している(〈書証番号略〉)。

また、菊池は、預手に関する具体的手続は経理部長の坂巻昭に任せた旨供述しているところ、右坂巻は、住友銀行八重洲支店振出、振出日昭和四三年三月七日、金額一億四五〇〇万円、依頼人北星海運株式会社内山谷障三なる預手を、社長から、児玉の預かり分であるから一時銀行に預けるようにと渡され、三井銀行日本橋支店に架空の川原五郎名義の普通預金口座を作って右預手を取り立てて同年四月一日に一億四五〇〇万円を預け入れ、翌日これを右川原名義の通知預金とした、同月一六日に社長の指示で右通知預金を解約して一億四五〇〇万円の預手を作成したが、右預手がそのまま戻ってきたので同月一七日に通知預金を作り、社長の指示でこれを同年五月三一日に解約して一億四五〇〇万円の預手を用意した、また、以上の預手とは別に、児玉から預かった現金を社長の指示で同年四月一日頃から通知預金としていたが、同月一七日、七十七銀行日本橋支店に架空の小山文男名義で三〇六一万円と五六万六三八六円の二口の通知預金として預け入れた、この金額に端数があるのは、前に作ってあった三井銀行日本橋支店と七十七銀行日本橋支店の通知預金の利息ではないかと思う、右三〇六一万円及び五六万六三八六円の各通知預金を同年五月三一日解約して八〇〇万円の預手を作成した、と答申している(〈書証番号略〉)。

そして、右坂巻の答申の内容は、〈書証番号略〉の通知預金証書、出金票、自己宛小切手依頼書及び小切手(八〇〇万円の小切手は北海道炭礦汽船が支払いを受けている。)によって裏付けられる。

控訴人らは、菊池の供述及び坂巻の申述は不合理、不自然であると主張するが、そのような点はなく、右主張は採用することができない。昭和四三年三月七日に依頼人を北星海運株式会社内山谷障三(原審証人山崎文助の証言によれば、山谷障三は当時の北星海運の副社長であることが認められる。)とする預手が作成されているところ、本件五一〇万株の売買は同年五月三一日であり、その間二か月以上を経過しているが、菊池は前記のとおり何らかの事情で取引が二か月位遅れたと供述しており、また、いったん四月一六日に一億四五〇〇万円の預手が作成されたが、戻ってきたという事実があるから、当初の予定よりも実際の取引が遅れたものと推認することができる。したがって、取引の二か月以上前に調達されているから、右一億四五〇〇万円が本件五一〇万株の売買代金ではないとはいえない。七十七銀行日本橋支店に預け入れられた通知預金の金額が本件五一〇万株の購入代金一億五三〇〇万円と一億四五〇〇万円との差額八〇〇万円ではないこと等の理由が必ずしも明らかではないからといって、直ちに菊池の供述等が不合理であるとはいえない。

(四) 吉水及び佐々木の各供述について

当時北星海運の社長であった吉水俊夫は、児玉の買い取り資金は北星海運で都合し、児玉事務所へ行き、一億四五〇〇万円しか都合できなかったと述べて現金を渡した、差額八〇〇万円は北星海運が都合するとは話していないし、萩原に依頼した記憶もない、児玉から自分で都合するといった積極的な話もなかったので、努力したがこれだけしかできなかった、あとはよろしくお願いしますと話したのではないかと思う、北星海運が都合した金は児玉から返済されている、また、児玉から株式を買い取る資金は、八洲観光開発株式会社など買い受ける三社から集め、これを株券と引換えに全額児玉に渡しており、その際萩原や北星海運がその中から引き去ったことはない、児玉は、本件五一〇万株を一株三〇円で買い、五〇円で売ったことになるから、差額の二〇円に相当する利益を得たことになる、と供述し(〈書証番号略〉)、さらに、児玉に譲渡した株式はすべて児玉のものである、児玉は、右株式を取得する資金は別荘を処分して作るが、それまで一時立て替えておいてくれと言ったと記憶している、と供述している(〈書証番号略〉)。

吉水の右供述は、単に児玉の名義を借りただけであるとする控訴人らの主張を裏付けるものではないことは明らかである。副社長の前記山谷障三が資金調達に関与したことに言及していないからといって、吉水の供述が控訴人らの主張を裏付けることにはならない。

次に、昭和四四年八月から北星海運の専務取締役であった佐々木誠は、昭和四四年八月に専務取締役として着任した時は既に児玉が本件五一〇万株を所有しており、吉水社長から北星海運の株式の五一パーセントを持っている児玉に挨拶をした方がよいと言われて児玉宅を訪れて就任の挨拶をした、児玉は、右株式の買い取り資金を箱根の土地と本件五一〇万株を担保にして北海道拓殖銀行築地支店から借り入れたと聞いている、北星海運はかねがね児玉の株式を引き取りたいと思っていたが、昭和四六年二、三月頃児玉から引き取ってほしいとの申し出があり、関連会社三社で買い取った、と供述しており(〈書証番号略〉)、やはり控訴人らの主張を裏付けるものではない。右供述のうち、吉水社長から「児玉さんにお願いして株式を持ってもらったのだから拓銀へ支払う利息は北星でみなければならない」と聞いているとの部分は、必ずしも児玉の名義を借りたにすぎないことを示すものとはいえない。

(五) その他

本件五一〇万株を児玉が買い取ることになった理由が、北星海運側の都合にあったとしても、その買い取り資金の一部を児玉が用意することがありえないとまではいい難い。

また、北星海運が児玉に謝礼として五〇〇万円を支払ったということについては、山崎証人がその旨証言しているだけであるが、右五〇〇万円に関する山崎証人の証言があいまいであることは前記のとおりであって、五〇〇万円の謝礼が支払われたという事実を認めることはできない。

(六) 以上のとおり、本件五一〇万株のうち、二六万七〇〇〇株については児玉は名義を貸しただけであるとする控訴人らの主張は採用することができない。

三ジャパンラインからの収入金額に係る必要経費について

1  控訴人らの主張〈省略〉

2  被控訴人の反論〈省略〉

3  当裁判所の判断

(一) 〈書証番号略〉によると、児玉は、昭和四七年から昭和四八年にかけて生じた、三光汽船のジャパンライン株買占めに関する両社の紛争の解決斡旋方をジャパンラインから依頼され、その受諾及び紛争を解決に導いたことの謝礼として、ジャパンラインから、昭和四七年中に現金一億円、昭和四八年中に合計一億二一八八万円相当の金品をそれぞれ受領したこと、児玉は、右紛争解決のために力を借りたそごう株式会社社長水島廣雄及び野村證券会長瀬川美能留に対し、謝礼として、昭和四八年中に、戦時中に取得して保持していたダイヤモンド付指輪各一個を贈呈したことが認められる(児玉が、ジャパンラインと三光汽船との紛争解決に尽力し、ジャパンラインから、昭和四七年中に現金一億円、昭和四八年中に合計一億二一八八万円相当の金品を受領したこと、児玉が、水島廣雄及び瀬川美能留に対し、協力する謝礼として、昭和四八年中に、戦時中に取得したダイヤモンド付指輪各一個を贈呈したことは、当事者間に争いがない。)。

(二)  右の事実関係によれば、児玉は、昭和四七年及び昭和四八年の両年にわたって合計二億二一八八万円の雑所得(必要経費控除前)を得、これを得るため直接に要した費用として、昭和四八年中に右指輪二個を支出したものということができる。そして、一般に、費用を現金以外の物品で支出した時は、その支出した時における評価額の価値を有する財貨として用い支出したものと見るのが合理的であるから、そのように見ることを相当としない特段の事情がない限り、児玉の昭和四八年中の雑所得の金額が計算上必要経費に算入すべき金額は、右指輪二個の昭和四八年における時価に相当する金額であると解するのが相当である。

〈書証番号略〉によると、右指輪二個を児玉が戦時中に取得した時の市価は、水島に贈呈したものが三〇万円、瀬川に贈呈したものが一万七五〇〇円であり、その昭和四八年当時の時価は、水島に贈呈したものが一億円、瀬川に贈呈したものが一一〇〇万円であることが認められる。

児玉が、右指輪二個を昭和四八年中にどれくらいの価値のものと認識して贈呈したかは明らかでないが、ジャパンラインから受領した謝礼の総額が二億余円であるから、右時価に相当する合計一億円前後のものと認識して贈呈したものと推認され、また、その謝礼総額と、指輪二個の時価との対比からして、右指輪二個の昭和四八年における時価である合計一億一一〇〇万円を同年の雑所得の金額の計算上必要経費に算入すべき金額とすることは相当である。

(三) 右の事実によると、児玉は、合計三一万七五〇〇円で取得した指輪二個を、一億一一〇〇万円の価値のものとして用い支出したのであるから、その差額である一億一〇六八万二五〇〇円は、昭和四八年中に児玉に生じた所得となる。

被控訴人は、右所得を雑所得であると主張し、その理由を前記2(二)のとおり主張する。

しかし、児玉が、仲立業という特殊な業務を遂行する手段として右指輪二個を貯蔵していたものと認めるに足りる証拠はない。したがって、右指輪を「たな卸資産に準ずる資産」であるとする被控訴人の主張は失当である。

そうすると、前記所得は、所得税法三三条一項(昭和六二年法律第九六号による改正前のもの。ただし、現行法も条文の文言は同じ)の本則に帰って、譲渡所得を構成するものと解するのが相当である。

譲渡所得に対する課税は、キャピタルゲイン課税であって、資産の値上りによりその資産の所有者に帰属する増加益を所得として、その資産が所有者の支配を離れて他に移転するのを機会に、これを清算して課税する趣旨のものである(最高裁判所第三小法廷昭和四七年一二月二六日判決・民集二六巻一〇号二〇八三頁)。この定義に照らしても、右指輪二個の昭和四八年における時価と戦時中の取得費(現実の取得費は不明であるので、先に認定の市価をもって算定するのが相当である。)との差額一億一〇六八万二五〇〇円は、まさにキャピタルゲインであって、この金額部分に対しては譲渡所得として課税されるべきものであったということができる。

(四) そうすると、被控訴人が児玉の昭和四八年分所得税について昭和五二年五月一七日にした更正のうち、児玉がジャパンラインから同年中に取得した謝礼一億二一八八万円について雑所得の算定をするに当たり、必要経費を三一万七五〇〇円と認定し、その差額一億二一五六万二五〇〇円を全部雑所得とした部分は、そのうち右指輪二個の昭和四八年における時価と取得費との差額一億一〇六八万二五〇〇円の部分につき課税の根拠を誤ったものであって違法であり、取り消しを免れない。

したがってまた、被控訴人が同日した同年分の所得税額に関する更正のうち右取り消しの対象となる所得金額に対応する部分並びに昭和五一年九月三〇日にした重加算税賦課決定(昭和五二年一月二一日変更決定)及び昭和五二年五月一七日にした重加算税賦課決定のうち右取り消しの対象となる所得金額に対応する部分も、取り消しを免れない。

(五) 児玉の昭和四八年分の総所得金額は、児玉の確定申告に係る所得金額である四六五〇万七一二四円に対して、事業所得の金額一億三八〇〇万円、不動産所得の金額五四万三八八七円、雑所得の金額一億五四四二万四二〇八円及び給与所得の金額四〇万円を加算し、配当所得の金額一万五〇〇〇円を減算して算出した金額である三億三九八六万〇二一九円となる。

四熱海観光株式の譲渡について

1  控訴人らの主張〈省略〉

2  被控訴人の反論〈省略〉

3  当裁判所の判断

(一) 具体的な支援の依頼ではなく、将来紛争が生じたときの支援という抽象的な依頼であったとしても、依頼には変わりがないのであるから、あらかじめ謝礼をすることは十分ありうることであって、この段階で謝礼を支払うことがありえないとはいえない。

江戸は、昭和四九年五月当時は児玉に具体的な問題は頼んでいないので、児玉に謝礼を出すということは具体的には考えていなかったと証言しているが(〈書証番号略〉)、同時に、熱海観光の株を買ってお礼の気持を出したいということではないかと思う、株を買うということに謝礼の意味があった、売買には謝礼とか感謝の意味はあると思っている、などとも証言しており、謝礼の形態はともかく、謝礼を現実にした旨の証言もしている。しかも、江戸は、検察官に対しては、熱海観光の株式は一〇年間も無配であることは十分承知していたので、額面金額で買い取るのが適当であったが、児玉に対して私達重役や台糖という会社の安全を依頼したのであるから、それに対する謝礼の意味を含めて大刀川の言い値である三二六〇円の単価で買い取ることにした、この価格での買い取りが極めて高い値段の買い取りであることは常勤役員四名は皆承知していたが、横井の攻撃から会社や私達重役を守ってもらう謝礼が含まれていたので、常勤役員はこの価格での買い取りに全員賛成した(〈書証番号略〉)、大刀川秘書から一株三〇〇〇円以上で買い取ってもらいたいとの話を聞いてびっくりしたが、児玉に頼んだ謝礼の意味を含めて買い取ることに決めていたので、仕方がないと思い、会社に帰ってこのことを武智社長及び常勤役員に話した、武智社長らは、従前から謝礼の意味を含めて高く買うことを一応決めていたので、大刀川秘書の言い値で買うことにした(〈書証番号略〉)、と明確に供述している。したがって、江戸の、児玉に対する謝礼のことは考えていなかった旨の前記証言は、到底信用することができない。

(二) 控訴人らは、台糖は、熱海観光株式を買い取ることによって児玉に対する謝意を表すことにしたものであると主張し、また、売買価額は妥当なものであったとも主張しているが、時価相当額で買い取ることが他に特段の事情がない限り何ら謝意を表したことにはならないことは明らかであるから、控訴人らの主張はその趣旨が明らかではないといわざるをえない。なお、〈書証番号略〉によれば、台糖は児玉に対して、熱海観光株式を買い取ったほかには、一切謝礼をしていないことが認められる。

また、江戸は、値段の点についてお礼の趣旨が含まれているかどうかという質問に対し、「全然ないとも言えませんし、あるとも言えないのでございますけれども、具体的には値段とか何とかということは考えておりませんでした。」と証言し、三二六〇円という株価の決定については児玉に対する金額面での謝礼というのは入っていたのかいなかったのかという質問に対しては、「気持の上ではあったかもしれませんが具体的に数字としてはございませんでした。」と証言し、さらに、売買代金の中に謝礼が入っているかどうかについては、全然入っていなかったとは言えないかもしれないが、この金額のうちにどれだけ入っているとか、それを考えてやったということではない、謝礼の意味があるので、謝礼の気持を表したという意味で謝礼が含まれていることは考えられないこともない、と証言しており(〈書証番号略〉)、歯切れが悪くあいまいである。また、三二六〇円のうち具体的にどの部分が謝礼の額であるかということは指摘はできない、高く買ったかもしれないということは考えたが、意識的にわざと割増をしたことはない、とも証言している(〈書証番号略〉)。しかし、この証言は、江戸の検察官に対する前記供述と対比して、採用することができない。なお、台糖の関係者としては、売買代金のうち具体的にどの部分が謝礼であるかを決める必要性はないのであるから、謝礼が幾らであるかという点については特に意識していなかったとしても、不合理ではない。

そして、江戸の右供述のほかに、台糖の当時の常務取締役湯本清平(〈書証番号略〉)、監査役海江田一郎(〈書証番号略〉)及び総務部長武智文男(〈書証番号略〉)は、いずれも、熱海観光の株式の売買代金の中には謝礼の意味が含まれており、高額ではあったが買わざるをえないものであったと供述している。なお、右湯本は、刑事事件の公判においては、武智社長から謝礼の意味を含めて買い取りたいと言われた記憶はあるが、「謝礼の意味を含めた値段で買い取りたい」という話が出たかどうかは記憶がない、検察官に対して、「武智社長が児玉に対する謝礼の意味を含めた値段で買い受けようと思うと云いましたので私達はそれに賛成したのです」と述べたのは、お礼の意味合いというだけではおかしいではないか、値段的にその中に当然お礼の意味合いを含めたのではないかと質問されてそう言われればそれもそうだなということでそのような調書になった、と証言しているが(〈書証番号略〉)、この証言によっても、売買代金の中に実質的に謝礼が含まれているという事実は左右されるものではない。

また、児玉自身も、台糖に損を与える取引ではなかったと思っていたと供述するとともに、「私が台糖側にたったことがあったので、それを恩に感じたというか、その謝礼の意味も込めて台糖がこの株をあの価格で買ってくれたという事情があったのです。」と供述し(〈書証番号略〉)、陳述書(〈書証番号略〉)にも、「台糖側は、多少いろをつけた価額で買取ってくれたのだと思っていました。」との記載がある。

大刀川も、検察官に対して、児玉が横井問題について台糖を支援することになったことの謝礼を含めて熱海観光株式の売買をすることになったと供述している(〈書証番号略〉)。大刀川は、刑事事件の公判においては、右供述について、表現が正確ではないとして、株式の売買価格の中に児玉に対する謝礼が具体的に含まれているという話、三二六〇円のうち幾らが株の価格でいくらが謝礼であるかという話、謝礼を売買に仮装して支払うという話はいずれも出ていない、と供述しているが、謝礼の意味を含めて株式を買い取ってもらったという事実は認めている(〈書証番号略〉)。

以上の証拠によれば、株式の売買代金の中に謝礼が含まれていることは明らかである。

江戸は、三二六〇円という買取価額は熱海観光の純資産の評価に基づいて算出した旨証言している(〈書証番号略〉)。しかし、同人は、検察官に対しては、純資産の価額から三二六〇円という金額が算定された旨の「熱海観光道路株式会社株式取得価格計算基礎」と題する書面は、昭和五一年二月に国税局の係官が調査に訪れるというので急遽説明資料として作成したものであり、一株の金額が三二六〇円となるように土地の単価を勝手に設定するなどしたものであって正確なものではない(〈書証番号略〉)、適正な株価の算出は全くしていない(〈書証番号略〉)、と供述しており、湯本清平(〈書証番号略〉)、海江田一郎(〈書証番号略〉)及び武智文男(〈書証番号略〉)も、適正な株価が幾らであるかという点についての調査、検討は全くしていないと供述しているのであって、江戸の右証言は信用することができない。

なお、〈書証番号略〉の不動産鑑定評価書は、熱海観光所有の土地及び構築物(自動車専用道路及びその付帯施設)の昭和四九年五月一日当時の評価額は三〇億円であるとし、〈書証番号略〉の熱海海岸自動車道修正見積鑑定書は、熱海海岸自動車道の工事費について昭和四九年五月時点において修正見積りをすると四二億一九六一万円余りとなるとしている。しかし、前記のとおり台糖は熱海観光の株式の買い取りに際してその適正な価額の調査等を全くしていないのであるから、仮に熱海観光の資産の価額からして三二六〇円という買い取り価格が妥当であるという事実が立証されたとしても、現実に右売買価格の中に謝礼が含まれているという事実が覆されることにはならない。また、市場価格の形成されていない株式の価格の算定については、会社の純資産を基礎とする純資産価額算定方式が採用される場合もないではないが、〈書証番号略〉の野村総合研究所作成の「台糖株式会社株価算定案」と題する書面に記載されているように、株価形成の要因としては、当該会社の配当率、収益力、資産内容のほか、収益の成長性、安定性等の複雑な諸要因が挙げられるのであって、単に純資産の価額だけで株価を算定するのは相当ではないと解される。したがって、右鑑定評価書等によって直ちに右株式の相当価額は一株当たり五〇〇円を超えるものではなかったとの認定が左右されるものでもない。

(三) 熱海観光の経営状態について、控訴人らは、昭和四九年三月期以降は配当が可能な状態であったと主張する。しかし、熱海観光の設立当時の社長で、昭和四四年以降は会長に就任し、熱海観光を吸収合併した三井観光の社長でもあった萩原は、昭和四九年三月期にわずかの黒字を出したが、道路の安全を保つためのテトラポット等の施設が十分ではないのでその補充が常に必要であって、その問題が先決であるから配当の具体的な時期の見通しなどは立っていなかった。昭和五一年の三井観光との合併時点で熱海観光の株式の評価は五〇〇円程度と考えていた、と証言している(〈書証番号略〉)。また、熱海観光の代表取締役武井一夫は、昭和四九年三月期あたりから、配当をしようと思えば不可能ではなかったが、台風等による不測の被害に備える必要があるので、社内保留金を準備する必要があり、実際に配当する気持にはならなかった、熱海観光の株式は額面価額である五〇〇円を超える価額で流通するような株式ではなかった、と証言している(〈書証番号略〉)。したがって、配当の可能性が全くなかった訳ではないが、現実には困難であったと認めざるをえない。なお、熱海観光の株式の評価について、萩原は、第三者が是非熱海観光の株式が欲しいということであればその間の話し合いでまとまってゆくであろう、株主が第三者に譲渡する場合にはいろいろの価額があるだろうと思う、額面程度であろうというのは会社が引き取る場合とか、合併の場合の基準である、と証言しているが、第三者との取引の場合には当事者間の話し合いによって価額が決定されるという当然のことを述べているにすぎず、相当価額が五〇〇円程度であることを否定する趣旨とは解されない。また、武井証人も、株主が純然たる第三者と取引したケースはなく、五〇〇円以上で取引されるかどうか判断の基準は何もない、と証言しているが、株式の客観的な評価が五〇〇円を超えないという前記証言と矛盾するものではない。なお、萩原は、検察官に対して、熱海観光の株式はせいぜい額面金額位の値打ちしかないはずのものであり、株主から引き取る場合でも、額面以上で高く引き取れる株ではないと供述しており(〈書証番号略〉)、武井も、検察官に対して、昭和四七年頃株主の要望で株を三井観光が引き取った、額面金額の五〇〇円の値打ちすらある株だとはいえなかったが、好意で株を引き受けてくれた人達に損をさせる訳にもいかないので額面金額で引き取ってもらうことにしたと供述している(〈書証番号略〉)。したがって、三井観光等が特に安価で引き取ったという事実は認められない。

また、昭和四八年四月から熱海観光の総務課長であった安部元章は、検察官に対して、熱海観光は、道路の建設コストが高くつき、この建設資金を多額の借入金によって賄ったため金利負担が大きく、毎期赤字を計上してきたが、四九年三月期に至ってようやく欠損金を解消することができた、しかし決算上黒字とはいうものの、道路の維持のためにテトラポットや六脚ブロックを数多く海岸線に投入しなければならない等多額の工事費を要するところ、その数を節約してようやく黒字になったというのが本当の姿である、と供述し(〈書証番号略〉)、また、刑事事件の公判において、熱海観光は開業以来一〇年間ほとんど消波ブロックの投入ができず、早急に投入しなければならない時期に差し掛かったので、そのための借入金の返済原資を確保するために昭和五〇年に料金の値上げ申請をしたが、その際専門家に必要な護岸施設の検討を依頼したところ、一〇年間に一七億円余りの工事代金が必要であるとの結論であった、もっとも、その後実際に実施したのは計画の三分の一位であった、と証言している(〈書証番号略〉)。熱海観光の経理部長であった岡本亨も、四九年三月期で赤字を解消したといっても、本来計上すべき消波装置の計上がないなど、道路の安全性を犠牲にして四八年三月期や四九年三月期の決算が組まれたことになる(〈書証番号略〉)、四九年三月期以降の黒字は、設備投資をすべきところをしないで計上した利益である(〈書証番号略〉)、と供述している。

右の一七億円余りの護岸工事が必要であるとの見積りをした技研興業株式会社の担当者である酒井靖洋は、右見積りは、既設の六脚ブロックは消波工の機能を果たしていないと見てこれを度外視して、その前面にさらに新しく消波設備を設置するという内容である、既設の消波設備でも通常の波浪の場合には流失などの恐れはない、と証言しており(〈書証番号略〉)、前記のとおりその後実際にこの計画どおりには工事は実施されていないが、これによって新たな護岸工事が全く不要であったなどとはいえないことは明らかであり、相当額の設備費用を投じる必要があったことは否定できない。

熱海観光の株式の売買実例について、萩原は、株主が第三者に売却したという例はないと証言し(〈書証番号略〉)、武井一夫も、株主から引き取ってもらいたいと頼まれた場合以外に、知人間で売買されたことはない、と証言している(〈書証番号略〉)。しかし、右各証言から、熱海観光が株主から引き取った一二件以外の一五件も実質的には熱海観光が引き取ったものであるということにはならない。また、発行会社が株主から自社株を買い取る場合には額面金額となるということを認めるに足りる証拠はない。

次に、合併の際の株式評価額が通常の売買価額を反映するものではないことを認めるに足りる証拠もない。かえって、萩原は、三井観光と熱海観光の合併に際して、通常行われる方式に従って熱海観光株式の評価をしたところ、その結果は一株当たり五〇〇円であって、萩原もそのとおりであろうと考えたと証言しており(〈書証番号略〉)、五〇〇円という評価が適正な価格を下回るものであったとは認め難い。

以上のとおり、熱海観光株式の相当価格は一株当たり額面金額である五〇〇円を超えるものではなかったと認定することができる。

第四結論

以上述べたとおり、本件控訴のうち昭和四八年分所得税に関する部分は一部理由があり、この部分の請求を棄却した原判決は不当であるから、原判決中昭和四八年分所得税に関する部分を変更し、その余の各年分所得税に関する原判決は相当であるから、それらに関する控訴を棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法九六条、九二条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官髙橋欣一 裁判官矢崎秀一 裁判官及川憲夫)

別表〈省略〉

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